kyoukokukenbunshi’s diary

狂国見聞史 生きづらい世の中に対して感じたことを書きます

精神の中に生きる

社会的な成功を夢見て努力することは多いだろう。

 

子供たちが塾に通うのも、将来、安定した仕事ができるようにと願う親が多いからだろうし、受験が過熱するのもどこの国でも似たような状況になってきているのだろうと思う。家が貧しくて学校に通うどころではない国に対しては、大抵私たちは教育を受けられない子に対しても教育を受けさせてあげるべきだという考えで納得しようとするのである。

 

最近になって、発達障害の子供や、不登校の子供に対して理解を広めるための情報が出始めた。願わくばみんな、人間関係にトラブルを抱えず、学習能力も人並み以上になって、優秀な人材と言われたいと願って生きている。

 

だが、いろいろな理由で生きづらさを抱える人々が見聞きしている世界や、感じていることなどを取り上げる記事はあまり多くない。

 

いってみればすべての人が何かしら生きづらさを抱えているのに、その感覚を麻痺させるように誘導する社会の構造が、深い病にかかっているというのに、あくまでも個人の感じ方であるとか、個人の精神の病であるとか、社会ではなく個人の問題としてそれらを扱い、彼らをも「健全な感じ方をし、疑わない人」に育て上げることを目的として問題提起しているのだ。

 

人間の本能には死への欲動(タナトス)があるというが、破滅へ進みたいと思う人間の衝動が社会の闇を増大させているのだと考えることもある。

 

だが、社会的成功を人生の目的としない生き方が世の中に浸透したら、かわいさと生活の充実をアピールするためだけにSNSを使って寂しさを埋め合わせてきた人々が、自分が存在するだけで意味があり、独りでも愛を感じて生きることができるのだと幸せをかみしめて生きるのは夢物語ではなくなると私は思う。

 

この考えはずっとまとまらず、なんとなく感じているだけの戯れ言でもあるが、なぜか鬱状態がひどくなると、私は社会的立場や成功などに目がいき、自分が情けなくて消えた方がいい存在だと思ってしまうので、こう書いた。

 

病的だからこそ人の本質が現れやすくなるとはよく言ったもので、精神は人の社会的立場やつながりを無意識のうちに意識し、支配もしているのである。

 

この変な、無意識のうちに起こる他者と自分との比較は、社会の根源をなす欲望と深く関係があると思う。

 

大きな病などをきっかけに、名声やお金を追いかけることをやめ、野鳥を見たり近所の草木の成長を喜ぶようになる人々の心の変化は、社会に根ざす競争の闇に一筋の光を与えてくれる気がする。

 

これを書いている間に、かなり大きな地震があって、身の危険を感じたが、家族も私にも怪我がなかった。これだけでもありがたい。そして、そのありがたみを人生の糧にしたい。