kyoukokukenbunshi’s diary

狂国見聞史 生きづらい世の中に対して感じたことを書きます

感覚の起点と社会

SNSやネットニュースの社会への浸透が進んでいるが、ある知人からインターネットの情報が多様化し、極端な内容の情報に対してそれぞれの信者ができ、意見の違う人同士の間で叩き合いが激化しているという話を聴いた事がある。インターネットが極端から極端な意見のもと人々を吸収し、それぞれの信者が裾野を広げるという現象が現れている。

 


果たして、意見というものはどこから生まれて人の心を掴み、定着するのかはよくわからない。

 


人がある意見を持つまでには直感も大きく影響しているらしい。だが、意見を決定するのは直感だけが要因ではないだろう。

 


コロナ禍では人々の身の安全のために色々な制約が社会に求められ、市民も自主的にマスクを身につけ、手を洗い、人混みや外出を避けていた。

 


だが、それも簡単にGO TOキャンペーンが銘打たれると、覆って、街に人が溢れる。トランプ大統領夫妻がコロナウィルスの検査で陽性反応が出たとも報道されているが、それはアメリカの大統領選挙にどのような影響を与えるのかはよくわからない。

 


ネット上で人々の対立が激化しているだけでなく、マスクをつける、つけない、外出する、しないを巡っても色々なトラブルが起きているように感じられる。

 


社会は簡単に不寛容になってしまうのだろうが、強迫的にマスクを買いあさって手洗いをしていた人々が、政府が旅行を推奨していて割引きになるからという理由で旅行に行ってしまう一貫性の無さにも私は驚いてしまう。

 


基本的に、私はここ数年あまり出歩かないので、近くに買い物に行く以外殆ど外出しない私には、コロナ禍でもコロナ禍でなくても大きな生活の変化は無いように感じられるが、ニュースで目にする人々の動きは海の波のようである。

 


もしかしたら、もう多くの人は実際に見聞きして感じる事よりもスマートフォンの中の情報にしか反応しなくなっているのかもしれないが、そうだとしたら行動の一貫性のなさも肯ける。

 


見た情報が脳に反応を簡単に起こさせれば、単純に信じさせる事ができる、ということか。

 


薬などで脳のある部分が働きにくくなっていると、誰が見ても感動するような話や面白い映像を見聞きしても愚鈍な反応しかなく、何の感情も引き起こさない。そういう状態をもう3年近く経験してきていて、ひたすらつまらないなあと思って生活してきたが、そういう感覚もこういう時代には貴重になるのだろうか。

 


自分が冷静だとは思わないが、愚鈍な感覚の中に利点があるとしたら、そういう事かもしれない。