kyoukokukenbunshi’s diary

狂国見聞史 生きづらい世の中に対して感じたことを書きます

愛と美の機械化


人にとって自然な環境とは何だろうか。砂抜きをするアサリを人工的に作った塩水に入れると、管を伸ばして必死に生きているが、彼らはしばらく経つと鍋に入れられてお吸い物にされてしまう。

 


人間はアサリを食べるが、アサリと同じ運命を辿っていると思う。

 


「愛と美を機械化する試み」という言葉をJoost Meerlooの「The Rape of The Mind」という本で見つけた。英語の本なので辞書を片手にしながら読んでいるが、それでもよく理解できていないと思う。だが、愛と美を機械化するという言葉には感銘を受けた。

 


私たちが生きている社会には愛と美のイメージが沢山あるが、いずれも私たちはその真髄を知ろうとせずに消費している。

 


愛と美というものは、つまらない平凡な日常の中から得る気づきの中にしか存在しないのに、みんなリッチで便利な生活をする事を望み、自分は他人よりも偉いのだという幻想を追いかける事に夢中になっている。

 


欲望が機械的に湧いてくるように仕組まれた世の中は、広告や報道という影響力のある媒体を使ってイメージを人々に提示し、それを次から次へと消費させる。

 


人を扇動するために恐怖と羨望を利用し、私たちが自分の頭でものを考える事を妨害しているのである。

 


昔、傷痍軍人の資料を展示している、東京の「しょうけい館」に行った時に、平和運動を続けて来た人の言葉を見た。

 


「眼を覚まし行動を始めると

 


不自由がつきまといます

 


大切なのは諦めない事です」

 

平和を願う素朴な気持ちは、困難によって潰れそうになるものなのだろう。

 

諦めないということが人生にならなければ、維持できないのが平和なのだろうか。

 


話は変わるが、志半ばに命をなくした人の遺作や、長年世に発表されてこなかった絵や文章などの作品を見たり読んだりすると、ついえた未完成の形というものが非常に物悲しく美しい余韻を心に遺す。

 


遺された者が未完成の部分を補うために想像すること、それは作者が生きた証に対する純粋な敬意を表すことなのだと思う。

 


私たちは底なしの欲望を社会から要求され、死ぬまでその欲望を満たすために搾取されている。

 


恋愛や結婚や出産、子育てなども、華麗な言葉と映像や写真と言ったイメージで煽られ、なんとなくある年齢になったら家庭を持たなくてはならないかのような圧力になり、それに人生を翻弄されて生きて、ありのままの自分を理解して受け入れてくれる居場所がそこになくても、みんな自分をある程度不自由に慣れさせる努力をしている。

 


完成されない形というものは、人間にとって苦しくとも不可欠なロマンのようである。

 


不完全さを労わり、愛するということは全ての生き物との関係において重要なものだが、面倒な事である。

 


面倒なことを全て簡単にし、楽をして幸せを手に入れようという発想がビジネスになり、受験や就職や恋愛や結婚や友人関係を「うまくやる」ためのノウハウとして社会に情報が出回っているが、私はそれこそが「愛と美を機械化する試み」であり、優しさを排除した残酷な世の中の元凶のように感じられるのである。