kyoukokukenbunshi’s diary

狂国見聞史 生きづらい世の中に対して感じたことを書きます

英雄の条件

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人間の本性は闇に近いものがあるのだと思うが、私たちは社会で生きていくために善良な面を鍛えて、それを表に出す努力をしている。

 


真実とは大衆の単位で考えると権力者にとって都合が悪いものかもしれない。だが、個人が見聞きした真実は、周りの人々にとって真実には見えず、社会との擦り合わせがうまくいかない場合には個人は自信を喪失してしまう。

 


人の言葉の重みとは何なのかよくわからないまま、私たちは強き者や強き媒体の発する言葉を信じ込まされているかもしれない。

 


年の瀬にあちこちで炊き出しが行われて、寒い中行き場も食べる物もない人々が列を作って食事を得ようとしていた。家がある者にとっての年越しと、家がない者にとっての年越しは天国と地獄ほどの差があるが、強き者の目には辛い想いをしながら列に並ぶ人の姿は何の感銘も起こさないのだろうか。

 


私たちは英雄を欲する性質があるが、テレビに出てくるセレブを英雄と考えるか、困っている人を放っておけずに手を差し伸べる人を英雄と考えるかは、その人の裁量に任される事になる。

 


だが、大概、真実を語る者は嫌われて排除されがちなのが世の中かもしれない。

 


歳を取ると周りに何を思われても自分のやりたいように生きる事を優先させられるかもしれないが、若いうちは社会に自分を合わせる事に精一杯で、理不尽な目に遭っている人を見かけたり、自分が理不尽な目に遭ったりしても黙って見過ごしたり我慢したりという社会への忖度をするかもしれない。

 


酷い搾取によって成り立っている経済も、格差によって成り立っている教育も、黙って見過ごして我慢する事で強き者たちは恩恵を受けているのである。

 


格差や階級が人を悪魔にしても、各々が心の目を養っていなければ悪魔も英雄とされるだろう。

 


そして悪魔の定義というものがどんな人の中にも数パーセントは当てはまるという事実も、私たちが考えないようにする事で忘れ去られていく。

 


英雄は悪魔にも天使にもなり得るという事は、周りの人達がその人を観て評価し、投影している「影」が、イメージとして一人歩きしている例えにもなり、私たちは自分の「影」を一番意識して生きている期間が長い。

 


人間の本質を知るという事は、影に光を当てて、その人が追い詰められた時に何を考え、どのような行動を取るかという事を知る事である。

 


英雄という概念が格差への憧れでもあると私はずっと思ってきたが、自分にとってかけがえのない恩人が英雄になるというのは納得のいく英雄像なのである。

 


英雄とは対等に愛を与えあい、信頼を築く事ができて初めて産まれるものであるが、どう考えても人を騙して搾取する権力者が英雄視されていれば、自ずと社会は悪くなっていくように思われる。

 


私たちに必要なのは具合が悪くてしゃがみ込む人の目の高さまで自分が背を低くするような「対等な愛の交換」であり、間違っても偉そうに踏ん反りかえっている人には周りの人と対等になる機会はないという事実が目の前に横たわっている。