kyoukokukenbunshi’s diary

狂国見聞史 生きづらい世の中に対して感じたことを書きます

人との交流

手を洗う時に固形石鹸が流しに落ちて、少し石鹸が凹んだ。その石鹸が落ちる様が、手を洗った後も何回も脳裏に蘇った。

 


最近はちょっとボーッとしているうちに今やっている事、さっき考えていた事を忘れてしまうので、これではいけないと思っていたが、この石鹸が落ちる様は何回も思い返す。

 


最近ではよく石鹸が売れ、車のディーラーなどでもお土産に石鹸をお客にあげたりする。

 


コロナ禍の印象的な現象である。

 


最近では常用する薬が少し変わったので、副作用が前よりも酷くなくなり、前は常に怠くて寝てばかりだったのが、割と楽になって活動的にもなれてきた。

 


街に出ると、道から見える空もすっかり秋で、マスクを外すと秋の香りが風に混ざっている。

 


ちょっと前はキンモクセイの花の香りもしたし、夕焼けの空は幻想的で侘しい光に満ちている。

 


長く感じられた暑い夏から、すっかり季節は変わったのだが、世の中の問題は相変わらず深刻である。

 


菅政権になってから、安倍政権時代よりも社会が悪くなってきていると感じるが、日本はどうなってしまうのだろうか。

 


よく、右派と左派の闘いに憤っていたが、最近では割と引いた目線でそれを観ているかもしれない。

 


人が心暖まる瞬間というものは、右も左も関係なく、人から親切にされたり愛情をかけられた時だろう。

 


そういう心暖まる瞬間が、皆にもっと増えればいいのにと思う。

 


そうみんな思いながらも、社会には悲しい出来事が溢れ、ネットのコメント欄を見れば心ないコメントも溢れている。

 


ネットは遠慮なく気軽にものが言える反面、こう言ったら相手が傷つくかなとか、考えて発言するという発言のハードルが低くなってしまったきらいがあると思う。

 


コロナ禍で人と会いづらくなった現在では、ますますネットの世界のみが情報の糧となり、人と交流する場になっているが、反面でSNSを辞める友人も増えた。

 


現実の世界に生きるという事が、感覚がネットの世界にのみ反応するようになっている場合には夢のようでもあろう。

 


よく、夢を観た時に、怖い思いをするが、起きればまた煩悩の世界に飛び込む。

 


苦しい、甘い。それを繰り返す毎日。

 


波のように夢と現実の間を彷徨っているうちに、なんとなく人は自分が侘しい、寂しい存在なんだと実感するのだろう。

 


今日、駅前を通りかかったら、催眠商法をやっているらしい健康食品の店にわんさかと人が集まっていた。

 


健康が気になるお年寄りを集めて高いものを売りつける店は許せないが、それだけ現実的に不安を抱えてお年寄りは生活しているのだなあと思った。

 


不安な気持ちに寄り添って生きられるのもまた人のなせる業である。

 


互いに無関心な世の中になってしまえば、お金を払ってでも人との交流を買うようになる。

 


うろ覚えなのだが、星の王子さまを読んでいた時に、王子さまが出会ったキツネが、人間はなんでも店でものを買うが、友達を売っている店はない。だから、人間にはもう友達がいないんだ、というような事を言うシーンがあったように思う。

 


社会が損得勘定をせずに、お金では買えない人との心の触れ合いを取り戻してくれたら、友達の意味も変わっていくのだろうな、と催眠商法に群れている人々を観てふと考えた。