kyoukokukenbunshi’s diary

狂国見聞史 生きづらい世の中に対して感じたことを書きます

我慢する時間

外出しても、スマートフォンを見てネットの世界の方を真実だと思ってしまう人が増えているのか、現実を見る事も考える事も拒否なんていう社会になりつつあるように感じる。

スマートフォンの普及によって人と連絡を取れない時間というのもなくなりつつあるので、人との距離の取り方がわからず、人との関わり方に問題が起きてくるのもSNSで頻繁に経験するようになった。

私が毎日のように人と電話したり、メッセージのやり取りをする事に慣れていないせいもあり、(人との距離の取り方が遠い方なのかもしれないが)特に男性からの頻繁な連絡に耐えかねてしまう事が多い。

人格障がいについての本を読んだ時に、インターネットや携帯電話の普及によって、人格障がいの症状が昔よりも重くなったり、子供同士のいじめの問題が深刻になってしまったという報告を見た記憶がある。

人にとって誰かに何かを言うということは、その時の欲求を話すことで満たしたいという気持ちを解消する行為であるので、連絡を取る手段が無かったり、連絡を取るにしても手間や時間がかかる時代に比べて、人が我慢するという事も少なくなってしまったようにも思う。

ただ、頻繁なメールや電話の鬱陶しさを態度で示しているのか、フランス人やアメリカ人と連絡しようとしてメールを送っても、相手が本当に返事をする気になれなければずっと返事が来なくて、でも嫌われている訳ではないという事もよくある。

日本人同士はこまめに頻繁な連絡のやり取りをする事を良しとする雰囲気があるようだが、お国変わればそれが当たり前ではないというのも事実としてあるので、一概に皆が頻繁に連絡する事を好んでいる訳でもないとも言える。

けれども相手に何か他愛もない事を話す事が簡単なように見えてそうでもない、というのを私は身をもって感じている。

私が持っている障がいは、躁状態の時は相手が反応しようとしまいと矢継ぎ早に自分の言いたいことを言ってしまうし、(考え過ぎや関連付けて物事を判断する症状によって言葉が止まらない)陰性症状が出ている時には1日をやり過ごすのが苦痛なほど言葉が出てこない。人間は時間の流れる感覚を言葉を発する事によって「自分が心地よくなるように」処理をしているのだと痛感する。

身近に家族がいる人は言葉のやり取りを煩わしく、重く感じる事も多くあるだろうが、一緒に暮らす家族がいなくて話し相手もいない人にとっては寂しさを感じる事が多いと思う。最も、若くて何でも自分で出来るような気になっている時には、一人暮らしをする事は至福の生活かもしれないが。

SNSを使って友達や知り合いの様子を見ていると、この人とこんな話ができるといいなとか、この人からこういう反応を貰いたいとか、自然に期待してしまう事が出てきてしまうものではあるが、他人からつく「いいね!」の数やコメントによって生活の充実度が変わってしまう特殊な時代になっている、と指摘しているアーティストの作品を、茨城県笠間市にある美術館で観た。

子連れの女性がその作品を観に来て、大きな白い壁の部屋で何かをすると壁に「いいね!」のマークが出てくるという展示物を、子供たちは面白がって叩きまくっていた。アート作品を叩くのはどうなのかと思いながら、親と喧嘩になるのが面倒で、私も何も注意せずに呆れてその部屋を立ち去ってしまったダメな大人なのだが、何かをすると反応が貰える事に快感を感じるのは人間だけの性質ではあるまい。

犬や猫でも、人間の反応を期待してあれやこれや試して行動するものである。

それでも、スマートフォンを持ち歩く習慣のない(スマートフォンの中で起きている事を自分の事として関連付けることもないであろう。最近では、留守番しているペットにビデオ動画で飼い主が話しかけられるというものがあり、飼い主の声と姿を認識しているから、彼等も機械を使う日が来ないとは言い切れないが)動物にとっては、その時実際に関わった者との触れ合いが全てであり、それ以上でもそれ以下でもない。

バーチャルな方法を用いた他者との関係を手に入れてしまった人間にとって、その時相手に伝えたいと思った事をスマートフォンやパソコンを使って書いたり、電話をかけたりという事で即座に気持ちが処理できるようになった。

それはそれで便利になったのだが、言いたい事を口に出す前によく考えるというワンクッションがあれば、ネット上でのいじめやハラスメントの類ももう少し改善されるのではないか、と密かに思っている。

手紙を書いていると、相手に送る前にやっぱり伝えない方がいいかな、と思い直して、半ば感情的になって書いてしまった手紙を出さないで破るという事もあるのだが、それも無駄なように見えて意味のある事のように思える。