kyoukokukenbunshi’s diary

狂国見聞史 生きづらい世の中に対して感じたことを書きます

祖母のお葬式

大好きな祖母が亡くなり、秋田までお葬式に行ってきた。

お葬式で私が弔辞を述べた。

今頃は天国で祖父と一緒に楽しくやっているのかな、と思う。

そうであって欲しい。

弔辞の内容をブログに載せるのはあまり良くないかな、と思ったりもしたけれど、書いた文章はブログにあげているので、載せてみました。

弔辞

おばあちゃんへ

私が産まれる時も、両親を手伝いに来てくれたおばあちゃん。私や姉が小さい時から、随分と可愛がってくださいましたね。今は、天国で先に待っていたおじいちゃんと会えているのでしょうか。

子供の頃は、夏休みになると毎年秋田のおばあちゃんの家に行くのが楽しみでした。庭に座り込んで何時間も虫を観察していた私に、おばあちゃんは「この植物はこうして遊べるよ」「暑いから帽子を被りなさい」と色々な事を教えてくれ、いつも気遣ってくれました。

私は中学生の頃に具合が悪くなり、精神的に不安定になりましたが、そういう時におばあちゃんと話をすると、不安定な私を勇気付ける言葉をくれましたね。

庭で草むしりをするのが好きだったおばあちゃん、庭に入り込んだ近所の猫を追い払って走っていたおばあちゃん、父が具合が悪くなった時にも心配して手伝いに来てくれたおばあちゃん、私にとってのおばあちゃんは、とても強い女性だというイメージがあります。

そんなおばあちゃんでも、新しい場所に行くのは不安だったらしく、私と電話で話した時に「ねえ、うちの近くにコンビニっていう所ができたんだけど、おばあちゃん、行っても大丈夫かしら?風邪ひかないかしら?」と相談してきた事もありましたね。

年齢を重ねるごとに、おばあちゃんが可愛らしくなっていくのを微笑ましく思っていました。

癌になったおじいちゃんの介護をしていた時のおばあちゃんは、本当に大変だっただろうと思いますし、おじいちゃんが早くに亡くなった後も寂しかっただろうと思います。

おじさんが常に側にいておばあちゃんを支えていてくれたおかげで、私達家族も安心していられました。

おばあちゃんが家の中で転んで大腿骨を骨折してから、おばあちゃんは施設に入る事になり、私もあまり秋田に帰省できなかったので、会う機会があまりとれなくてごめんなさい。

それでもおばあちゃんに会えば、太った私に対して「あんた、顔がまん丸だね。別の人みたいよ。街の中であんたに会っても、誰だかわかんないね。」と言っていたおばあちゃんの言葉をよく覚えています。パーキンソン病が進んでから、おばあちゃんも話せなくなったので、その言葉がおばあちゃんと会話した最後になりましたね。

この間病院で会ったおばあちゃんは、話しかけても時々頷いたりすることができるかできないかくらいしか反応できず、それでもおばあちゃんが泣いたり笑ったり感情豊かな様子を見て、会いにきた家族全員が笑顔になったのは印象深い思い出です。

私は、苦労しながらもポジティブに生きてきたおばあちゃんが昔描いていた絵を観て、人にとって何かをできるということが必ずしも重要な事ではなく、むしろ歳をとったり病気になったりして、今まで出来ていたことが出来なくなっていく過程において、ショックを受けたり動揺しながらもその人がありのままの自分を受け入れていく心の変化がもっと大切な事なのかもしれないと思うようになりました。

私自身が精神の障がいを持って生きる身なので、昔出来ていたことができなくなるということがすごく辛いのは、よくわかります。

けれどもベッドの上でほぼ寝たきりになっているおばあちゃんが、人に会って目が笑っていたり、採血をして痛くて顔をしかめていたり、お見舞いに来た私達が帰るのを悲しんでいたりする様子は、純粋で尊いと感じました。

人は、産まれてから人生の幕を閉じるまでに何回笑うのでしょうか。何回泣くのでしょうか。

おばあちゃんの純粋な感情に触れて、私は病気で不自由を強いられていたように見えるおばあちゃんの魂は、自由に飛翔していたように思いました。

今まで本当にありがとうございました。

これからもずっと、おばあちゃんとの思い出を大切に思い返しながら、私も精一杯生きていきたいと思います。

ゆっくり休んでくださいね。