kyoukokukenbunshi’s diary

狂国見聞史 生きづらい世の中に対して感じたことを書きます

ふがいなさ

昨日は雨が降っていた。歯医者に行く用事があり、行きは父が車で送ってくれたのだが、帰りは傘をさして歩いて帰った。

 


少し距離が遠かったのと、普段あまり外に出ないのと、このご時世に難だがあまり体調が良くないのとで、一気に疲れて喉が痛くなってしまい、そそくさとお風呂に入って寝てしまった。

 


今朝は起きる時に身体が怠くてしんどく、ついに流行のウィルスに感染してしまったのだろうかと心配したが、納豆ご飯を食べてゆっくりしていたら、怠さも少しずつ良くなってきた。

 


いい加減、元気になっていないと困るのだが、体調は良くなったり悪くなったりの繰り返しで、母は私が調子が良くなって動けていると思っている時の方が、躁状態ではないかと心配するようだ。

 


母がピアノでラフマニノフの曲を弾き始めたのだが、昔はピアノが弾きたいが弾けない、と言っては、手の医者に通ったり、大人の初心者のためのピアノのグレード試験に出たりしていた母も、ようやく自信を持って弾ける範囲でピアノを楽しみ始めたらしい。いつも弾いているわけではないのだが。

 


私はと言えば特にやりたい事がある訳でもなく、夢がある訳でもなく、家でボーっとしたり親とお喋りをしている事が多いが、医者に「今は何をしてるの?」と聞かれた時に「家でボーっとしてます。」と答えたら、「じゃあ、ちょっと大人になったんだね」と言われて意外だった。

 


ただ、確かに数年前の私は家にじっとしている事ができず、外に飛び出しては具合が悪くなり、身体を使う仕事をやっては具合が悪くなり、外で動き回る事で大きなものを得ながらもダウンする事の連続だった気がする。

 


外に出て人と会い、何かをするということはある意味で生きている実感が持てて、私は活躍できているという気にもなるが、家に閉じこもる生活をしていると、自信が持てなくなる事がある。

 


そういうふがいなさを感じる時こそ、何もできない自分も存在している意味があるのだと気づくきっかけを得られるものだが、コロナ騒ぎで家から出るなと言われるようになってからは、なんだか引きこもりの人が市民権を得たというか、今までとはちょっと違う価値観が社会にも産まれたような気がする。

 


そうは言っても、外に出たくてたまらない人もいるし、近くのスーパーに行けば混雑しているから、みんな外出したいし、外で活動したいのだろうなと思うのだが、つまらないながら家にいるというのもあながち捨てたものではない、と私は思ってしまう。

 


それでもこれから働き始めたら家にいて勤務できるような職にはつけないだろうし、決死の覚悟で電車通勤しなくてはならなくなるだろうから、今具合が悪いのは身体にとっては必要な事なのだろうと思って生活している。

 

 

 

コロナ騒ぎの報道がニュースのメインになる中、あちこちの国で警察国家になりつつあるようにも感じる。

 


むしろ市民の人権を侵害する側に持っていきたい政府にとっては、願ってもない状況なのだろうか。

 


なんだか色々な意味で、不穏な世の中である。

 


一致団結して、という言葉を聴くと、戦時中と変わらないなあと感じてしまう。