kyoukokukenbunshi’s diary

狂国見聞史 生きづらい世の中に対して感じたことを書きます

チェルノブイリ原発

2020年4月26日現在、チェルノブイリ原発近くで起きた森林火災はまだ続いている、とのニュース記事を見た。

 

私が産まれた1986年の4月26日、チェルノブイリ原発で事故が起きた。

 

世界中に放射能が拡散し、日本にも影響があったが、私たちは何事もなかったかのように事故を忘れ、そして2011年の3月11日に日本の福島第一原子力発電所で、事故がまた起きた。

 

原子力発電所は、発電のために存在する名目で建てられているものの、核兵器の材料となるプルトニウムを作るために存在すると指摘する研究者もいる。だが、その意見はあまり広く信用されていない。

 

福島の事故の2年後の2013年12月、私はウクライナキエフに行った。チェルノブイリの危険区域に行く事は出来なかったが、事故の影響を受けたキエフの街はどうなっているのか、自分の目で見てみたいと思ったからだ。

 

キエフの街は、錆びた路面電車が走っていたり、壊れかけた美しい古い建物がネットをかけられた状態で売りに出されていたり、日本の都市と比べてみるとギリギリの状態で建物や車や電車を使い回しているように見えたが、東京のように夜中までカフェが開いていて、当時は独立広場で反政府デモをやっていた関係もあって賑やかだった。

 

どことなく寂れた印象の強い街の中に、ベビーカーに乗って両親と外出する子供や、若いカップル、年取った夫婦、若者、日本と同じく老若男女が生活していた。

 

気になったのは、ウクライナ人とロシア人の両親を持ち、ウクライナ人の血を受け継ぎながらもウクライナ人を悪く言い、差別する親露派の若者も結構いた事である。

 

ソビエト連邦が崩壊し、ウクライナウクライナとして独立したように見えて、市民の中での対立と差別は根強く残っているように見えた。

 

ある親露派の人に、チェルノブイリ原発事故記念館に行きたいと言ったら、連れて行ってくれた。二人で展示物をくまなく観て、私はロシア語もウクライナ語もわからないながら、日本語音声ガイドの助けを借りて、原発事故でどれほどの人が亡くなったか、事故の影響で健康状態の良くない子供がどれほど産まれたか、事故後10年以上経ってからようやく公開された政府の公文書などの存在を知った。

 

今回起きた森林火災の現場で、チェルノブイリ原発の約2kmの地点まで火の手が迫る中、消防士が棒で直接火を叩いて消す様子もネットの動画で観た。

 

チェルノブイリ原発事故記念館には、原発事故の現場に何回も入り、入るたびに記録される入所記録が何回かで途絶えた人の手帳などがあった。

 

人知れず、命を投げ出して現場に向かう人がいるのは、どこの国も変わらず、今日も福島原子力発電所の4号機の建屋内で、内壁や足場が倒壊する危険がある事を報じていたが、その現場の補強工事に駆り出される労働者については何も言及しない。

 

私が都内に出る際に使う常磐線も、福島を通過する路線の乗り入れを再開したため、電車車内の放射線量が跳ね上がっている。

 

キエフに行った際に、私はもっと深刻な様子だと思って行ったために、人に活気があり、便利な様子に意外な印象を受けたものだ。

 

けれどもメトロの駅の中で、身体障がいのある娘を車椅子に乗せて、物乞いをする貧しい親の姿を見た時に、これが活気溢れるキエフの街に隠された真実なのだろうと思った。

 

福島に住む住人にとっては、いつまでも消えないネガティブなイメージに実際の福島はそんな危険な場所ではない、私たちはここで生活をしているのだと言いたくなるだろう。

 

東海原発に何か不具合が起きるたびに、ああ、またかと感覚が麻痺している茨城の住人にとっても、似たような感覚があると思う。

 

けれども、今日も明日も被爆を強いられる人々の健康の問題は、報じずに伏せておくべきものなのだろうか。

 

原発から取り出され、核兵器の材料として売られていくプルトニウムについても、徹底的に伏せられたままである。

 

今、原発の問題よりもコロナウィルスの方が重大な問題として報じられ、実際に大きな被害が出ているが、原発事故に関してはこれほど大きく報道はされなかった。

 

今、世界が向かう方向が、核兵器を使った戦争にはなっていないか。

 

実際に大きな被害が出ているコロナ禍であるが、気候変動や原発の問題、核兵器の問題については全く報じられず、日の影になっているように感じられる。

 

これから、また梅雨の時期がやってくる。コロナ禍のために人間の経済活動が活発でなくなり、気候変動は少しマシになったようではあるが、また台風や豪雨による災害が多発するのではないかという事が懸念される。

 

密集した状態に人が居ないようにと呼びかける政府は、もし災害が起きた時にどうやって人々の健康を守るのか、今すぐに考えて対策を練らなくてはならないだろう。

 

そして気候変動による災害に、倒壊しかかっている福島の原発は耐えられない可能性がある事を、真摯に受け止めて対策しなくてはならないだろう。

 

チェルノブイリも福島も、原発事故は収束していない。

 

そして、これから起こり得る気候変動による災害に対しても、あまり認知されていない。たまたま、豪雨災害が起きたとか、たまたま、台風が来たというように報じられがちであり、それらが気候変動と関係しているようには認知されていないように思う。

 

人間が豊かな生活を送る事は、人間の生きる目標のように考えられてきたし、社会の価値観もそれに従って作られてきた。

 

けれども今は、その価値観も概念も全く生きる指標にならないどころか、人類の首を締めるものになっている。

 

私たちは、どこで真理を得て方向転換できるのか、今試されているような気がしてならない。