kyoukokukenbunshi’s diary

狂国見聞史 生きづらい世の中に対して感じたことを書きます

生きる事の罪と意味

人間は自殺という人生の終止符が打てもするのだが、生きる事の罪について悩む人は自殺への誘惑に駆られるだろう。

 


戦争が勃発するかもしれない恐怖に希望を見失い、自殺する者もいる。

 


例え人生の終止符の打ち方が自死であったとしても、その人の生きた生命の輝きは永遠に意味を持つものである。

 


人間が自分のために環境を破壊して生きる事は罪深い事でもあるが、生と死の両義性の狭間で悩む事がまた、生きる事、死ぬ事に対して深い意味を与え、人の意識がこの世においてしか見えないという点においては、悩む事は生きているからこそできる深い人生への洞察なのである。

 


命が尽きるまでに人が苦悩し、幸せを感じたという事は、真実の見えづらい現代においては最も誇るべき人間の証明であり、人の心というものが現れるのである。

 


憎しみが憎しみを呼ぶ戦争を阻止する為には、人の心がもっと生命の輝きに共鳴しなくてはならない。

 


アメリカ全土で反戦デモが起きている。日本でも反戦を訴える声が強まっている。

 


世の価値観が全てスマートフォンに奪われて、退廃的な娯楽のみにしか反応しなくなっている人が増えたように見える狂国において、平和を守ろうとする人々の働きは、暖かくも厳しく、犯罪を犯す権力者を追求する矢となり得るだろう。

 


希望は、その活動から産まれてくるものなのではないだろうか。

 


衆議院議員三宅雪子氏の遺体が、東京湾から見つかった。不審死である事は紛れもないが、彼女の命が自死によって絶たれたのだとしたら、非常に悲しく、残念な事である。全く希望が見えない世の中である事は紛れもない事実なのだが、それでも生きていて欲しかった。

 


希望の見えない世の中に希望を作り出すためにも、命を絶とうかと悩んでいる人に対して暖かい手を差し伸べる必要性を感じる。

 


生命の物語には悲しみがつきものであるが故に、より一層、人々が平和を願う気持ちを一つにして、世の中に訴えかけていく事の意味を深く考えている。

 


人間が生きる事によって産まれる罪と、その意味。

 


人間が起こす災いの数々は、また人間によって収束させる事は本当に不可能なのだろうか。

 


世界が第三次世界大戦を危惧する中、オーストラリアでは山火事によって多くの野生動物や人々が犠牲になっている。(注 山火事の原因は放火が原因である事が判明しました。)

 


人類は戦争をしている場合ではなく、気候変動に対して協力して対処しなくてはならない時期にあるのだ。