kyoukokukenbunshi’s diary

狂国見聞史 生きづらい世の中に対して感じたことを書きます

朝鮮半島統一

エマニュエル ・パストリッチさんの書いた文章です。朝鮮半島の統一についての考察。

 
朝鮮半島統一」についての小考
 
 
2019年21日
エマニュエル・パストリッチ
 
今までの朝鮮民主主義人民共北朝鮮の将来についての議論は、以下の二者択一的な議論だけに終始して来たつまり、一方で北朝鮮の協力を拡大し、それによって投資、事業活動、輸送ネットワーク、電力網およびエネルギー協力を増大させることを好む人たちと、他方で北朝鮮まだ完全な非核化を達成できていないだけではなく、先進国とは異なり、民主主義と自由市場、国境の開放を容認していない全体主義国家であるため、国際社会の信頼を得ることができないと感じる人たちとの間の闘いであるこの純化した議論は昨年メディアを埋めくした。メディアが提示するものを超えた問題に関する市民の議論がほとんど崩壊状況であったため、このような議論がかなり幅を利かせていた。
 
もはやで1970年代や1980年代のように、仁寺洞茶店に集まって禁書について議論していた反派と生を見つけることはできない。NGOの集まりの定期的な討論はもちろん、家庭で夕食を食べながら校で友達と、または喫茶店で、政策、環境、または将来について議論していた姿さえ消えてしまった。携電話を通して愉快で無害な情報を受信することが受動的な人々の日常となった。
 
マスコミが特定の政策を「進歩」または「保守」と規定すれば、大多数の人々は、メディアの判断をそのまま受け入れるプリンストン大学シェルドンウォルリン(Sheldon Wolin)教授が「逆さまの全体主義(inverted totalitarianism)」呼んでいるものとは、商業メディアや広告主の圧力などの隠された力によって、日常的な問題の言説が厳しく制限されている政治的な状況で、服従を強要する独裁者がなくても、全体主義的システムが定着す利益を追求する企業の力は、私たちの時代の最も重要な問題を自然に無視する風土を作り上げた。一例として、我々はもはや本を読まない。 10分以上集中できない人が多い。商業メディアは情報取得の場となりソーシャルメディアは猫とデザートの写真を提示したり、時折、商業メディアが作り出したイメージを披露するだけである。
 
が共同の問題についての議論を失ったということは、私たちのメディアが地域経済の崩外資投資銀行の過な影響力、動とそれによる微細粉塵の災害、米国内の一部勢力が夢見る世界大などの深刻な問題を言及しないことを意味している。この限られた国内の議論は、南北係の展がどのように映し出され、統一は正確に何を意味し、統一をどのように導くかについて莫大な影響力をえている。例えば、メディアが文在寅大統領とキム・ジョンウン委員長が抱擁する写真を見せてくれれば、南北がDMZ側から武器を除去するために軍事的に協力したというニュースや、平の立派な建物が登場する場面などが肯定的に感じられるようになる。
 
容自はすべて肯定的である。ただし、これを明する過程で、世界と絶、閉鎖された封建 - 社主義家に生きなければならなかった北朝鮮の住民が今では消費社の喜びを享受し、はるかに裕福なの兄弟姉妹のようにしみながら生きることができるようになることを暗に述べている。しかし、韓園ではない。韓はかなりの社的、文化的、経済的な力を持っているが、その中で多くの人が深い疎外感を感じ、これにより高い自殺率、日常的な自己虐待と他人虐待を招いている。強欲な雇用システムも外せない。現在、韓では若者たちが苦して仕事を探すも、社に奉仕し、高度な訓練を受けることが出来たり、の人生の決定を下すことができる機はおろか、コーヒーショップやコンビニでくことになる場合が多い。生活のあらゆる側面が利益を追求するショー、人はこれに疲れてしまった。
 
さらに、韓と米北朝鮮を貧困と孤立から救うために提示する「民主主義と市場経済」は、全世界的に力を失っている。米と日本、韓州で1930年代と1940年代の社主義の挑して進化した修正資本主義は、さらに貪欲な形で、1990年代より1890年代に近い姿に後退した。今のフランスの葛藤参考にすと、これらの矛盾がさらにはっきり、韓と他の今後経験する況を垣間見ることができる。