朝鮮半島統一
エマニュエル ・パストリッチさんの書いた文章です。朝鮮半島の統一についての考察。
「朝鮮半島の統一」についての小考
2019年2月1日
エマニュエル・パストリッチ
今までの朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の将来についての議論は、以下の二者択一的な議論だけに終始して来た。つまり、一方で、北朝鮮との協力を拡大し、それによって投資、事業活動、輸送ネットワーク、電力網およびエネルギー協力を増大させることを好む人たちと、他方で、北朝鮮はまだ完全な非核化を達成できていないだけではなく、先進国とは異なり、民主主義と自由市場、国境の開放を容認していない全体主義国家であるため、国際社会の信頼を得ることができないと感じる人たちとの間の闘いである。この単純化した議論は昨年メディアを埋め尽くした。メディアが提示するものを超えた問題に関する市民の議論がほとんど崩壊状況であったために、このような議論がかなり幅を利かせていた。
もはや、韓国で1970年代や1980年代のように、仁寺洞の喫茶店に集まって禁書について議論していた反対派と学生を見つけることはできない。NGOの集まりの定期的な討論はもちろん、家庭で夕食を食べながら、学校で友達と、または喫茶店で、政策、環境、または国の将来について議論していた姿さえ消えてしまった。携帯電話を通して愉快で無害な情報を受信することが受動的な人々の日常となった。
マスコミが特定の政策を「進歩」または「保守」と規定すれば、大多数の人々は、メディアの判断をそのまま受け入れる。プリンストン大学シェルドン・ウォルリン(Sheldon Wolin)教授が「逆さまの全体主義(inverted totalitarianism)」と呼んでいるものとは、商業メディアや広告主の圧力などの隠された力によって、日常的な問題の言説が厳しく制限されている政治的な状況で、服従を強要する独裁者がいなくても、全体主義的システムが定着する。利益を追求する企業の力は、私たちの時代の最も重要な問題を自然に無視する風土を作り上げた。一例として、我々はもはや本を読まない。 10分以上集中できない人が多い。商業メディアは情報取得の場となり、ソーシャルメディアは猫とデザートの写真を提示したり、時折、商業メディアが作り出したイメージを披露するだけである。
韓国社会が共同の問題についての議論を失ったということは、私たちのメディアが、地域経済の崩壊、外資系投資銀行の過剰な影響力、気候変動とそれによる微細粉塵の災害、米国内の一部勢力が夢見る世界大戦などの深刻な問題を言及しないことを意味している。この限られた国内の議論は、南北関係の発展がどのように映し出され、統一は正確に何を意味し、統一をどのように導くかについて莫大な影響力を与えている。例えば、メディアが文在寅大統領とキム・ジョンウン委員長が抱擁する写真を見せてくれれば、南北がDMZ両側から武器を除去するために軍事的に協力したというニュースや、平壌の立派な建物が登場する場面などが肯定的に感じられるようになる。
内容自体はすべて肯定的である。ただし、これを説明する過程で、世界と断絶、閉鎖された封建 - 社会主義国家に生きなければならなかった北朝鮮の住民が今では消費社会の喜びを享受し、はるかに裕福な韓国の兄弟姉妹のように楽しみながら生きることができるようになることを暗に述べている。しかし、韓国も楽園ではない。韓国はかなりの社会的、文化的、経済的な力を持っているが、その中で多くの人々が深い疎外感を感じ、これにより高い自殺率、日常的な自己虐待と他人虐待を招いている。強欲な雇用システムも外せない。現在、韓国では若者たちが苦労して仕事を探すも、社会に奉仕し、高度な訓練を受けることが出来たり、真の人生の決定を下すことができる機会はおろか、コーヒーショップやコンビニで働くことになる場合が多い。生活のあらゆる側面が利益を追求するショーに変質し、人々はこれに疲れてしまった。
さらに、韓国と米国が北朝鮮を貧困と孤立から救うために提示する「民主主義と市場経済」は、全世界的に力を失っている。米国と日本、韓国、欧州で1930年代と1940年代の社会主義の挑戦に対抗して進化した修正資本主義は、さらに貪欲な形で、1990年代より1890年代に近い姿に後退した。今のフランスの葛藤を参考にすると、これらの矛盾がさらにはっきりと、韓国と他の国が今後経験する状況を垣間見ることができる。