kyoukokukenbunshi’s diary

狂国見聞史 生きづらい世の中に対して感じたことを書きます

花が萎れる

萎れていく花には何とも言えない風情と哀愁が漂う。

 


花が咲く理由や虫が鳴く理由について、私達人間は受粉して種を残すためとか、異性を魅了して子孫を残すためとか、色々調べて、その説を定着させてきた。

 


他の生き物の生態を調べてここまでやってきたのは人間の叡智と言える。

 


しかし、それだけ人間以外の生物に興味を持ってきたのも人間なのだが、彼らを平気で滅亡させているのも私達人間だ。

 


情熱の使い道や、人間の持つ衝動について、真の意味で深く考えられる事はなく、客観性を失ったままずるずると消費する楽しさに心を支配されてきたのが今の人の世なのか。

 


それだけに、純粋な善意や純粋な情熱というものには、人は関心がなくなってしまったのかもしれない。

 


理解され難い、純粋な情熱というものについて、萎れかけた花が教えてくれる事がある。

 


精一杯咲ける時に咲いてしまい、後はすっと萎れて枯れてしまうのは、花の持つ咲きたいという純粋な情熱だったのかもしれない。

 


花が美しい間だけ花を愛で、萎れたらゴミとして捨ててしまうか、ドライフラワーにできるものはドライフラワーにするという"用途"しか人は花に対して持っていないかもしれない。

 


しかし、虫を呼び寄せたり人の目を楽しませる以上に自分が咲き誇る意味について花は知っているように思う。

 


人は、他者に対して損得や用途と言った概念を超えて愛情を持てるようになった時に、平和の価値について知る事ができるのだろうか。

 


バラの花の棘は、触れる者以外を傷つけないが、人の作る道具はいとも容易く他の命を奪う。

 


自ら動く者の情熱は、他を巻き込んでいくのだが、人知れず命を咲かせる者の生きる情熱は、花のそれのように損得勘定なしに他者に与える事を使命と考えているのだろう。

 


人知れず生きて散っていく命の中に、人間がこれから見つけて大切にしていくべき、生きる目的が隠されているのかもしれないと思う。f:id:yonyonchang:20191112001917j:image