kyoukokukenbunshi’s diary

狂国見聞史 生きづらい世の中に対して感じたことを書きます

人間関係の不思議

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沢山の友達がいて、いつもチャットでワイワイ話していたり、連れだって一緒に飲み物を飲んでいる人を観ると、身近に友達が殆どいない私は、自分とは遠い世界に生きている人達のように見える。

 


たまに知り合った人達とそうやって遊んでみても、気を遣って疲れてしまうので、気軽に遊べる友達が沢山いるというのは、実はとても神経をすり減らすのではないかと私自身は思ってしまうのだ。

 


私と仲が良い人達は、みんな遠い所に住んでいるので、主にメッセージで連絡をしているが、彼らも一様に孤独だと言う。

 


人間はみんな孤独なものだが、寂しさを紛らすために友達を持っているとしたら、最終的に人にとっての友達の定義は何なのだろうか。

 


華やかそうに見える人に、媚びを売って近づいてくる人達は、その対象が自分にとってあまり利益がないと思うと、スーッと離れていってしまうことが多い。

 


全ての人間関係を損得勘定だけで測り、利益になるかそうでないかだけを判断基準にして友達にしたい相手を選別していく事は、器用なのかもしれないが、それこそ寂しい事ではないだろうか。

 


相手の欠点まで愛する事はなかなか難しいが、それでも人は誰かにシンパシーを感じた時に信頼できるようになる。

 


共に苦しみを分かち合い、共に笑える時間というものは、沢山あるようでいて実際には少ししかない。

 


忙しくなってくれば仕方ない事なのだが、若い時は純粋な気持ちで苦楽を共にしてきた友達も、いつの間にか自分と比較しては妬んだり、優越感に浸る対象になってしまったら、それこそ苦しみになってしまう。

 


人間関係の不思議は、自分が相手によって損をする事の方が、結果的に得るものが大きいという事だ。

 


そして色々な辛酸を舐めて成長した結果、今度は自分が誰かに尽くして、助けていける人間になれる事。それが最も重要な事かもしれない。

 


他人に与える事は簡単にできるようでいて、なかなかできない。ましてや見返りを期待せずに何かをしてあげるという行為は、自分がそうされないとその行為の真の価値がわからないものだ。

 


一括りにできない色々な関係性のうち、苦しみを分かち合える友達というものは、かけがえのない存在である。

 


真剣に生きて、真剣に考える事は不器用かもしれないが、そうする事によって得られた友達は一生の友になると思う。

 


不器用な人間だからこそ、裏表のない純粋な気持ちで他人に接する事の意味を真剣に考えていきたいと思うものなのかもしれない。

 


何年も関わってきた友人達には、綺麗でまっさらな心が確実にある。

 


それを感じるたびに、自分の心の持ち方を反省しては考えているのだが、私の事は私が一番わかっていないのだろう。

 


人間関係は幻想的で雲が形を変えていくような儚さをも持っている。

 


現れたり消えたりする雲のように、思い出や夢の中で会う友人の姿は、実際にあまり会う機会がないためもあって、より一層愛おしい人間性を見せてくれるもので、私はそれをいつも糧にして生きている。