kyoukokukenbunshi’s diary

狂国見聞史 生きづらい世の中に対して感じたことを書きます

不公平感と羨望

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テレビを観て、華やかな服を着ている綺麗な芸能人を観て、彼らがブランド店でショッピングをしても、高いレストランで食事をしても、「やはり成功者はすごい」と言うが、生活保護を受ける人は「怠け者のくせに税金で寄生虫のように生きやがって」と批判する人が結構いるのを知り、なんだか腑に落ちない。

 


生活保護を受ける人は「ずるい」と不公平感を露わにするが、元々お金がある家庭に生まれた人や社会的地位が高い人は羨望の眼差しで観る。

 


これがこの社会の生きにくさの本質の一部だと思っているが、仲の良い友達と話をしていたら、「今は子供だって物を買うときに消費税を払っているのに、税金払ってない奴は発言するななんて変だよね。」とさらっと言ってのけていた。

 


昨年末は新宿のバー喫茶の外に、「路上生活脱出ガイド」と、寄付で集めたテレホンカードを置くという企画をやっていたらしく、使わないテレホンカードの寄付を募っていた知人は、ガイドブックもテレホンカードもだいぶ手にできた人がいたらしいとSNSで報告していた。

 


芸能人などの成功者は、観ていて自分もそうなりたいなあと憧れを抱く対象だからポジティブに支持するが、病気や失業などで生活に困窮する人は自分がなりたくない姿だから、無意識のうちに排除したがるのかもしれない。

 


だが、強い者に媚び、弱い者を挫くという発想は社会全体を息苦しくしていく。

 


今まで栄華を誇っていた人でも、一度私生活のスキャンダルをマスコミに取り上げられたらイジメの対象になるし、不満が溜まっている人々には鬱憤の捌け口が必要になってきてしまっているのである。

 

その様子を見ていると、人にとって他人とは、自分の鬱憤を晴らす対象でもあり、憧れる対象でもあるが、その人が存在している事に対する感謝はなくなり、感情消費の対象となっているのであるとも言える。

 


けれども、昔は航空会社や銀行に勤めているというと高級取りのように思われていたが、今の世の中では飛行機も飛ばないし、銀行も経営難で大変になっている。

 


経済が底無しに発展していくと皆が信じて疑わなかった時代は終わり、誰もが明日はどうなるかわからないという中で必死に生活している。

 


先が見えない不安の中で大切になってくるのは、真実を見極める目を持つ事と、博愛の精神かもしれない。

 


今は相反する意見の裏付けとなる証拠をネットで検索しようとすると、双方の意見を立証できそうな情報がいくらでも出てくる。

 


何が現実かがわからない中で生きていかなくてはいけないという、不確かさが社会に蔓延しているのだ。

 


不確かさを見つめてみると、人の人生にはこれといった幸せの基準はなく、それぞれが与えられた境遇の中で希望を見失わない必要があると思う。

 


だが、どんなに努力しても個人の力ではどうにもならず、今日の生活も困難という人に対してそんな事を言うのは酷であろう。だからこそ、困窮している人は社会が助ける必要がある。

 


あの人は生活保護を受けているから狡い、あの人は年金を貰っているから狡いという発想を人々がしていたら、政府にとって好都合だ。

 


不公平感を育てて社会保障の額を減らせば、いくらでも福祉の予算を削れるし、国民が自ら権利を捨てて自己責任論に埋没して、弱者の切り捨てに力を貸すようになるからだ。

 


社会は優劣や力関係だけで成り立っているのではないと思えたら、生きるのが楽になる人は沢山いるのではないだろうか。