kyoukokukenbunshi’s diary

狂国見聞史 生きづらい世の中に対して感じたことを書きます

期待と無心

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近くの本屋に行った時に、幼稚園児らしい男の子が、お母さんにそろばんを使った計算ドリルの本が欲しいとねだっていた。お金に余裕がないのか、今できる事以外はさせる必要がないと思ったのか、そのお母さんは「こんなもの、わからないでしょ?小学生にならないとできないよ。ダメ!」と言って、買ってあげようとはしなかった。

 


子供がいたらいいなと私は思った事がないが、自分がもしも親の立場だったら、その計算ドリルを喜んで買ってあげるかもしれないとその時思った。

 


できないにしろすぐに飽きるにしろ、子供が小さいうちから勉強に興味を持っているなら良いと考えて判断している自分にはたと気づき、じゃあこれがゲームや玩具だったら顔を顰めてダメ!と言ってしまうのだろうかと考え直した。

 


子供に限らず、大人たちも非常に狭い範囲であれはダメ、これはダメという制約を課せられて生活している。ある程度真面目に働いて生活できないと不愉快な思いをする人が増えて社会が回らないから、当然と言えば当然なのだろうが、経済活動が環境を破壊したり、格差を広げる事は害悪のうちに入らない事になっている。

 


権力や富の前には、犠牲は致し方ないという発想に疑問を持たない事が、優秀な社会人の条件となってしまうのだろう。

 


計算ドリルに興味を持つ子供には喜んでドリルを買ってあげれば良いのにと考えた私も、狭いものの見方をする大人の一人だったが、その発想は蚊やゴキブリを殺す事は平気で犬や猫を殺すのは可哀想だと思う感覚の矛盾に似たものがあるのである。

 


自分たちの都合で道理が決まるのなら、社会のルールも価値観も極めて偏った基準で決められている面があるのかもしれないが、とにかく人の人生は生きづらい。

 


思った事を素直に表現する事は素直すぎて人を傷つけるから悪いのではなく、人を強い者の下で都合よく働かせて利益を上げる構造を壊してはいけないから悪とされるのだ。

 


どれだけ多くの人が、嘘で出来た社会の仕組みに対して不満を抱いているのかを知るのは容易なように見えるが、実は簡単ではないかもしれない。不満は口にしても、本当の意味で大きな組織に立ち向かおうとするエネルギーがある人はあまりいない。そうするためには、疑問を徹底的に追求しようとする探究心がないとできないからだ。

 


近くにある小さな店のギャラリースペースで、地域の絵画クラブの人たちが描いた絵の展覧会が開催されていたので見に行った。

 


ある男性の絵は、輪郭もなく大胆に絵の具をキャンバスに乗せて描かれていて、本当に個性がある。スイスに旅行に行った時の記憶を絵にしたようだ。

 


お店の人にその人への手紙を託したら、電話がきた。良い絵だと私達に言われて喜んでいた。

 


絵を描くと、輪郭の線を描いて綺麗に色を塗ってと教えられるが、彼は誰の言うことにも従わずに我が道を貫いて、独り異色の絵を描いているらしい。

 


周りの価値観に流されてしまいがちな私達には、そういう感覚が必要かもしれない。

 


期待は度が過ぎると媚びる原因になるが、無心は心を自由にしてくれる。

 


絵を観てから、ずっとそんな風に考えていた。

 


もしかしたら、私達は生きている限り自由の探求はできても自由にはなれないのかもしれないが、抗いは私の生き方に大きな影響を与えてくれると信じている。