kyoukokukenbunshi’s diary

狂国見聞史 生きづらい世の中に対して感じたことを書きます

母性神話と人新世

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小学校6年生の時に、学校で理不尽な事があった。次の年に小学校に進学する新入生達を、小学校6年生の女児だけで面倒を見て、新入生達の健康診断を学校で実施するという。同級生の男児達には、宿題を出すが、男児であるという理由で先に下校して良いというものである。

 


明らかな男女差別で、小さな子供が元々苦手な私は、女性であるというだけで子供の頃から良妻賢母である事を求められる気がして、学校の方針に真っ向から反発した。

 


結局一生徒に学校の方針を変える力はなく、仕方なく同級生の女児達と新入生の面倒を見た。新入生達も、私達が見た子は行儀良く、大きな問題は起きずに健康診断は終わったので、終わりよければ全て良しだったのかもしれない。けれども、同級生の男児達に冷やかされ、これはセクハラだと憤る気持ちは消えなかった。

 


未だに子供を持ちたいとは思わないし、少子化が必ずしも問題とは思わない。全ての女性が母親になりたい訳でもないと思うし、結婚だけが幸せだとも思わない。人口が増える事によって地球の環境が破壊され、結果的に今生きている子供達、私は母親にはならないが他の人が持つ未来の子供達が生きていけなくなる事の方がよっぽど問題ではないのかと思うからだ。

 


私は子供を持ちたいとは思わないし、全ての女性に母になる事を強要する社会の圧力はおかしいと、幼稚園児の頃から思っている。「貴方も将来ママになった時に…」と周りの大人から言われた時は憤然と怒る子供だったし、小学校高学年の時に、初潮が来る前に子宮を取りたいと親や担任の女性教師に言って驚かれた事がある。

 


基本的に、体調を崩して障がいがある事が判明するまでは、周りも私の事を将来母親になって労働力を生み出すべきだと考えていたようだ。

 


大人になって、なんで子供が欲しくないの、産むべきよと周りからセクハラされる時に面倒くさくて使っていた、子供を持たない理由が、「私には障がいがある。体力がないし、障がいは遺伝するから、子供は持ちたくないのだ。」というもので、それを言うと周りもある程度納得するようだった。

 


体力がなくて体調が安定しないから子供の面倒が見られないのは事実としても、自分でもとんでもない優生思想に基づいた、自分自身をも差別する発言をしていたと思う。障がいがある事を理由に強制的に不妊手術を受けさせられた事例が過去にあり、私ももっと昔に産まれていたら、(子宮を取りたいと願った事はあったが)個人の意思とは無関係に、強制的に身体にメスを入れられていたかもしれないと知ってから、障がい者である事を理由に子供を持たない選択をしても免罪される事も、障がい者でない事を理由に子供を持つ事を周りから求められる事も、障がい者であるが故に不妊手術を強要される事も、優勢思想から来る社会の歪みなのだと考えるようになった。

 


私は予測不能で危険な行動をする幼い子供が苦手だが、子供や子供を持つ親に対しては充分な社会的支援が必要だし、私が子育て中の人や子供の力になれる事があるならと思って積極的に手を貸そうと思っている。

 


子供の教育にお金がかかりすぎて、塾に行けない家庭の子供には良い教育を受けるチャンスが殆どない社会になったのはおかしいと思うし、そもそも公立の学校に義務教育で進学するのにもまとまったお金が必要な事もおかしいと思う。

 


近くの小学校では、学校が指定した上履きを各家庭に買わせるのだが、500円未満の上履きが普及しているのにも関わらず、指定の上履きは一足につき2300円に税金がかかる事を最近知って頭にきた。

 


正規雇用しかなく、どんなに頑張って働いても月に8万円ほどしか親が稼げない家庭が増えているのに、すぐ成長して子供の足にはサイズが合わなくなる上履きが、買うたびに2300円もかかるのでは、やっていられない。

 


上履きが高いために、上履きが買ってもらえず、体育の授業を見学しているだけの小学生が沢山いるそうなのだ。

 


更に、小学校で図工の時間に必要な彫刻刀も、高い物を家庭に売りつけて商売しているらしい。普通の彫刻刀ではなく、アニメキャラクターのイラストや有名スポーツブランドのロゴが入った、一セット3000円する彫刻刀を生徒達に見せて、欲しがらせて買わせるのだという。子供をだしにして大人が商売をする事で、各家庭の負担を増やす事は果たして良い教育システムと言えるのだろうか?

 


子供を持たない選択をしたら悪で、子供を相手に商売するのは良いというのだ。

 


子供を持たない選択をしても、子供の尊厳や人権を守る事は大切だと考える人は多い。

 


母性の強要をして、子供を持つように社会的な圧力を(特に女児に)かけるのも人権侵害でセクハラだし、そもそも性的マイノリティの人や障がい者は非生産的であると烙印を押して社会から排除する教育をし、初潮が来ている生徒にもきちんとした避妊法を教える性教育を学校でしないというのは、明らかに歪んだ考え方である。

 


母の日や父の日が近づくと、年端もいかない幼稚園児に親の似顔絵を無理矢理描かせて、発想が一番豊かな時期の子供に皆同じような絵を描く事を求めるのも異様である。母の日に母親の似顔絵でなく、リンゴや虫の絵を描いてもいいと思うし、そもそも人の顔として色をつける時に肌色のクレヨンだけ使わせるのも変な話だ。

 


社会に転がる問題に、素直な疑問を持って取り組んでいけるような考え方を育むのが、本来の教育ではないのか。

 


順位をつけて優劣を競うだけの社会に、もっと平等で助け合いのできる優しさを築いていけるようにするのが、これからの社会に必要な人間ではないのか。

 


また、障がいになる原因は取り除く必要はあるが、障がいがある子供なら要らないという風潮も変ではないのか。

 


人間が存在する価値が、大人の拝金主義にとって都合の良い、「生産性の高い」人間のみを産む事にあると考えられているなら、それは戦時中に将来お国の為に死ぬ兵士、兵器や軍服を生産する労働力を維持するために国が推奨した「産めよ増やせよ富国強兵」の思想と何ら変わらない。

 


これから北極の氷が溶けて都市が水没し、ある地域によっては砂漠化が進む時代に来ているのに、今生きている若い世代の将来を考える事はできないのか。

 


個人の意思を尊重して子供を持たない選択をした人間は、罪な存在なのか。

 


人口を増やして消費による利益を追求するだけが人間にとっての善なのか。

 


人間にとって大切なのは、評価される事よりも存在している事にこそ価値があり、存在しているだけでいいという安心感である。

 


それは母性とは関係なく、人間が人間の尊厳を大切にしていれば産まれるものではないのか。社会にそういう安心感が広まっていかないと、自殺者の数は減らないのではないだろうか。