kyoukokukenbunshi’s diary

狂国見聞史 生きづらい世の中に対して感じたことを書きます

対話と力関係

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前に派遣の仕事である飲食店で働いたのだが、そこの会社の研修で、エンゲージメントという言葉を聴いた。コミュニケーションという言葉はよく使われるが、エンゲージメントはコミュニケーションよりも重要だ、と10時間以上ほとんど休みなしに働かされているトレーナーの男性は得意げに教えてくれる。

 


しかし、私はエンゲージメントの意味が未だに理解できない。辞書で調べてみれば、従業員の会社に対する思い入れや愛着であり、それは会社と従業員との間の対等な信頼関係においてできるものだとあるが、どう考えても10時間以上に及ぶ研修の準備から指導まで一人でこなし、その間15分程度の休憩しかなく、研修に対して給料が出るのかもわからないとぼやき、研修が終わったら自分の店舗を観に行くと言う彼は、会社の奴隷のようだった。

 


エンゲージリングなどの言葉の意味から想像すれば、イメージは掴みやすいが、社会が推奨し、人生において最重要課題であるかのように言われている結婚も、くじ引きのようなギャンブルの要素が強いから嫌だと言っている人がいた。

 


競馬や競輪やパチンコに賭けるのはダメで、結婚や就職に賭けるのは尊いと言われる由縁は何なのか。

 


そもそも、社会が利益を得るために人に押しつけている価値観は、あくまでも個人の幸せのためではなく、お金や権力を一部の人間が得るために作り出した概念ではないのか。

 


私は、そういう利害から得るものよりも、無益に見える事から得るものの方が人にとって重要だと思っている。

 


仕事や家庭だけでなく、利害関係があまり絡まないような人間関係でも、問題や諍いは起きる。意見が対立する事も多い。みんなそれぞれが信じる説の理由や根拠をいくらでもネット上で探せるが、理屈でもって相手の意見を制する事と、対話する事は違う。

 


違う意見を受け入れるのは簡単ではないかもしれないが、人の話を聞くという事は、できるようでできていない。

 


関係が近いから意見が違う時に黙ってしまいがちになる事は沢山あるが、そもそも意見が違うから仲が悪くなるかというと、人間関係はそうでもない。

 


自分の意見と近い考えを持っている人が周りに集まれば心地よいのは誰でも一緒かもしれないが、意見の相違点を踏まえた上で彼等と一緒に食事したり、どこかへ行ったり、共に仕事をしたりといった局面が生活の随所にある。

 


だから、問題なのは互いにプライベートの領域に干渉した際、された際の対立とその対応なのだという事になる。

 


干渉されて自由を侵害されたような気になり、憤慨していても顔に出せない状況は誰でも経験した事があるだろうが、そういう時はつい相手を必要以上に責めたい気持ちになる。

 


セクハラやパワハラの大半が、力関係を利用して相手に文句を言わせないようにしながら行われるのもそうだが、なるべく穏便にその場を済ませるために文句を言うのをグッと我慢するのが、日本の社会では美徳のように考えられている。

 


先に述べたエンゲージメントの言葉の意味について私がなかなか理解できないのは、社会のあらゆる所に力関係が働き、さまざまな侵害がなかった事にされないと環境が「維持できない」という事になっているからである。

 


私達は物を沢山買って消費が沢山できる人間を豊かな人間であると信じ込まされて生きている。

 


買い物や地位では収まらない虚しさや悲惨さを、また買い物や出世の欲で紛らす構図は、まさにアルコール依存症や薬物中毒や摂食障害と変わらないのだが、消費するために働き、経済を回すと豊かになれるという神話を信じる事が、諦められないからこういうドラキュラのような社会になっているのである。

 


実際問題、このまま人類が何十年も何百年も経済の発展という神話を信じ続けていけるほどの資源もなければ、人が安全に生きていける気候も維持できない。

 


エネルギーのためと銘打ちながら核兵器を維持するために原子力発電所を持ち、兵器の寿命が来る前に紛争を起こして武器を消費する。

 


マラリアや麻疹も重大な病気であるが、それよりもコロナ禍を人類に対する危機と報道し、オリンピックの開催の有無を内部で議論しているうちに、コロナウィルスの感染者数も週替わりで増えたり減ったりし、ニュースが食堂の週替わり定食のメニューのように読めない。

 


人を集めるのが良くないからデパートや遊園地を閉めて、飲食店も時短営業をしろと命令する一方で、人を集める祭りを開催したいと言っているのだから、すごく矛盾している。

 


ジェネリック薬品を政府が推奨していたにもかかわらず、やはり何年も経ってからジェネリック薬品の問題性について認めるようになり、私はワクチン接種も危ないと考えている。

 


長年、薬を飲んでいるので、薬の副作用とは付き合っていかなくてはならないし、副作用の恐ろしさは身に染みている。

 


ボーっとして怠くなり、話すことも殆どできない状態が何年も続いたので、薬を新薬に変えたら、今度は文章も書けるようになり外出もできるが、猛烈な空腹感やめまいや頭痛がする。それを毎日耐えなくてはいけない。

 


薬やワクチンとはこういう物だと思っている。

 


だが、その意見は人に押し付ける事はできない。

 


あくまでも私個人の意見だからである。

 


それと同時に、ワクチン接種が強制化されていって接種するかしないかの選択の自由がなくなる社会はとても困ると思うし、マイナンバーカードのように全ての個人情報がわかってしまうように国民が数字で管理されていくのも非常に憂慮しているから、この文章を書いている。

 


人は本能的に情報を纏めたがり、自分が納得いくように理解したいと思うものだが、纏めるだけでは収まらないもの、納得がいくいかないは別として受け入れなくてはいけない、自分の身に起こる不遇なものに対しての許容は苦手である。

 


だが、この社会を覆う競争と格差の正体が何なのかを突き詰めて考える事は、搾取の構造の中では害悪なのである。そこは、人々が考えて改善しようとする事を阻止するために、働かざる者は食うべからずという考えでもって、仕事だけで生活が手一杯になるように仕組んでいるのである。

 


人が大事だと思う事はそれぞれ色々あるが、どんなに富があっても、一見幸せな家庭を得たとしても、社会的地位を得ても、生きる虚しさだけは避けられない感情である。

 


エンゲージメントという言葉が虚しく響くのは、利益を出すためにする事の大半は、末端で働く人々の犠牲がないと成し遂げられない事が前提である社会だからだ。

 


悲しさ、苦しみ、それは必要な事でもあるが、搾取される構造の中では、思考する事を辞めざるを得ないという悲劇があり、そこから産まれる悲しみや苦しみはただ理不尽なものだ。

 


本音を言える社会を作る努力をする事が、そんなに悪いのかとずっと考えて私は生きている。

 


大切なのは、抗う事や闘う事の過程であるかもしれない。