kyoukokukenbunshi’s diary

狂国見聞史 生きづらい世の中に対して感じたことを書きます

右傾化

人がものを考えて自分の意見を言っている時は、その人が置かれた立場や境遇に裏付けされた事情から発言する内容が決まるものだが、意見を口にしている人というものは大概、自分が意見を言う上で前提としている事柄について客観的に見る余裕はないし、自分の立場や境遇に関しても振り返ってはいないものである。

日本が自然に右傾化してきた背景には、隣国を敵視する言説がビジネスとして利用され、国策として流布されるようになった事に、多くの国民が抵抗感がない事実がある。

だが、ネット右翼の故意的な悪意ある意見に対して違和感を感じる人も少なからずいるものである。

若い世代にとって、刺激的で自分が強くなったように感じられる意見を言う事は、必ずしも魅力的な事ではない。

お金のない若者が、リベラル派の政治家の街宣会場に来ては大声でその政治家の悪口を言い、街宣のボランティアにしつこく絡んで妨害するようになってきたのは、つい最近までは攻撃的な年配の男性が、暴力を用いて社会運動の妨害を行なってきた事にとって変わられたように感じる。

私は時々、韓国に行くが、韓国でいつもお世話になっている韓国人の友達も社会運動をしていて、二人でよくそれぞれの国の暴力的な右翼について話す。

彼女はある時、右翼のおじいさん、おばあさんの生活を撮ったドキュメンタリー映画について私に話した。

大学で教えている彼女は、年配の右翼の人達の発想が理解できないと言う若い人達が、右翼のおじいさん、おばあさんが貧しい生活をし、右翼としての活動も生活の一部となっているありのままの姿を見るというのは大変意味のある事だと私に言った。

日本では、大衆がナチュラルに右傾化してきた事実がある。韓国の若者のように、右翼が理解できないと拒否感を示す人はあまり多くもないのかもしれない。

ひとつ言える事は、日本の人々は面倒な話を嫌うという事である。

対立や、議論は面倒こととして、あまり積極的に意見を述べる人は多くない。

憲法改正の危機が目前に迫り、私たちの人権すら危うい事すら、ほとんどの人が知らないか、関心がないかのどちらかである。

今、日本のネット上には、頭の回る右翼や、公安にお金を貰ったらしき人々が化けの皮を剥がしつつある様子が溢れている。

簡単に言うと、あからさまに言論の自由を無くすような妨害行為や、分断、デマの流布が顕著に見えてくるようになっているのだ。

この事態を、政治に関心のない人々はあまり知らない。

このようにして、じわじわと自由にものを言いづらくなる世の中になってきている事に気付いていても、やはり面倒であれば声をあげないのが賢いやり方だと皆が信じているのだろうか。

私たちにできる事は、日々感じる理不尽な出来事や、社会に対する疑問を、素直に書き記して発信する事である。

多くの世の中に出回る言説があるイデオロギーに染まってしまった場合に対抗できるのは、個人の素朴な意見に他ならない。

それすらも自由に言えない世の中になってから何かしようとしても、もう手遅れである。