kyoukokukenbunshi’s diary

狂国見聞史 生きづらい世の中に対して感じたことを書きます

満たされないという自由


満たされない、悲しい気持ちというものは誰にでもあるが、まあ仕方ないかと思うのは大切な事だと最近、感じた。

 


しかし、人間は元気な時は何かしていないと気が済まないというか、常に何かを表現したり、作っているものだ。

 


しばらく何年か何もできなく、体力も異様に低下して、たまに文章を書く以外は非常に、世間で言う非生産的な生活を送っていた。

 


最近は筋肉の緊張を取る薬を飲む事を辞めた。それのおかげなのだろう、少し活動的になれた。

 


活動的になれたのは良い事かもしれないが、人間が活動するとゴミは出すし空気も海も汚れる。少し元気になると、色々欲しくなったり、食べたくなったり、欲求が出てくるので、環境には悪いよなあと思いながら、それでもやる気が出てきたのは喜んでいる。

 

 

 

10年前の原発事故の後、かなり口にするものに過敏になって、魚を食べないと家族に宣言して顰蹙を買い、水道水も飲まないと宣言して顰蹙を買い、何かと人間関係で摩擦が多かった。

 


今では魚もある程度食べてしまうし、水道水をグビグビ飲むが、環境や社会の問題に対する意識はこうも人を分断してしまうのだと痛感する。

 


身体の具合が一時悪くなってから、少し家族とも摩擦が減ったというか、私も家族に合わせられるようになり、家族から見たら妙に神経質なところが減ったように思えるのだろう、関係は良くなった。

 


だが、社会問題に対する危機感は薄くなってしまったかもしれないとも感じる事がある。

 


どこか自分に対して納得いかないのだが、誰でも順風満帆という訳ではないのがわかってから、絵本の「でんでんむしの悲しみ」ではないが、すっと胸が軽くなってきている。

 


私は子供の頃から納得いかない事や自分の本心に沿わない事があると、頭では仕方ないとか納得しなくてはならないと思っていても、精神や身体の具合が悪くなってしまうという困った特徴があったので、最近は融通が少しは効くようになったのだろうか、いやそれとも、家族に合わせるようになって、自分らしさは殺してしまったのだろうか、と考えあぐねるのだが。

 


満たされない気持ちと自由とは、相反するようでどちらも自由でいるために必要な事である。

 


私たちは自由とは、好きな時間に好きな事をして、好きなものを買うという風に考えがちだが、人間には手に入れられるものや環境に限界があり、そのそれぞれの生活の中で腐った気持ちになっている事が多くても、一瞬、救われた気持ちになる事がある。

 


そして、世の中の忙がしさの垣間に見る、何気ない日常の中に、その救いが見える時がある。

 


雑草の生えた空き地が少なくなってきたなあと感じていたので、銀行の近くに雑草が生えている空き地を見て、そこをぶらぶらしていたら、奥に誰かが野良猫に餌をやっているらしきスペースも見つけた。

 


野良猫に餌をやるのは良くないという認識が日本にあるが、そう言えばトルコでは猫を街中で飼うような文化があるなあと、価値観の違いを感じたりもした。

 


その価値観の違いについて考える時にも、同時に自由を感じる。

 


昔はこう考えてはいけない、ああ考えてはいけないと、自分の感情を否定する生き方をして、自分にも他人にも厳しかった。

 


自分の置かれた境遇を恨んだりもした。

 


満たされない事と自由とは切っても切れない関係で、制約ある今の境遇の中で、どれだけありのままの自分を受け入れているか、が自由でいるために重要になってくる。

 


仕方ないでは片付けられない社会問題は別として、自分に対してはまあ仕方ないかな、と思い始めた時に、少し自由に近づけるように想う。

 

そして自由とは、漠然とした認識しかできないが、満たされない気持ちとそれの許容のバランスが取れた時に初めて、その輪郭を感じられるような気がする。