kyoukokukenbunshi’s diary

狂国見聞史 生きづらい世の中に対して感じたことを書きます

考える葦

 

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数珠を手ですり合わせたり、数えたりする「儀式」や慣習は、人間が科学を知らない時代に編み出した、世の中の理解の方法であり、人間は不可思議な事を受け入れて放っておく事が非常に苦手で、世の中の事物を理解しようとしないと不安になってしまうのだと示していると思う。

 


虫や動物は環境に合わせて自分の身体の構造を変え、生態も変化させて適応し、一生を終えるが、人間は周りの環境を破壊して変えるのが性である。

 


ところで、人の性質の話になるが、意外とSNSなどを使っている時の人の気持ちは、攻撃的な事も多いと思う。

 


匿名で自由に何かを批判できる事は自分が強くなった気にもあるが、ネットを使うと急に心の闇やネガティブな感情に対して素直になってしまう。

 


それだけ現実の世界に生きている時は本音がわからなくなるまで自分自身を抑圧し、空元気を振る舞って「ポジティブに」生きているのだろうから、反動が来るのかもしれないが、この心の闇や不満はどこから湧いてくるのだろう。

 


ニュースの項目や「売れている」本のテーマ、雑誌の広告などを見ていると、人々の心に本当に向き合った内容もあるのだが(今、小林多喜二の「蟹工船」やマルクスの「資本論」などがベストセラーになっているらしい)多くはダイエットの方法とグルメの広告が一緒になったような雑誌だとか、いかに自分を知的に見せるかだとか、人間の外側だけ意識させるような本や記事が多い。

 


人間の内面はそれこそダークだから、敢えて向き合いたいと思えないのかもしれないが、Amazonの商品レビューやYahoo!ニュースのコメント欄ですら、作り手や記事の書き手がストレスで病んでしまいそうなネガティブなコメントが多いので、優しい気持ちを維持し続ける事が人にとっていかに難しいかを痛感させられる。攻撃的なコメントを観て、頷いてしまっている自分自身に気づく事もあるからである。

 


言ってみれば経済というのは詐欺と暴力と格差で肥え太ってきたのだから、お金だけに価値を見出すのだとしたら、世の中は暴力的になってしまうのである。

 


なかなか思うように良い人生は歩めないなあと腐りがちになるのだが、それでも春には花が咲き、蟻などの虫はせっせと餌を探して歩き回る。

 


唯一、事物を解釈しきれない時に彼等の営みを観ると、慰めになるような気持ちになるし、納得できない事や気持ちの整理がつかない事も、ふっと消し飛ばされてしまうような感じがする。

 


人間の考えや慣習はそれでも続くが、自然の前には小さな悩みなのかもしれない。