kyoukokukenbunshi’s diary

狂国見聞史 生きづらい世の中に対して感じたことを書きます

他者配慮的な性格は損なのか

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隣町にある駄菓子屋にふらっと立ち寄った。あるお父さんが、小学校低学年くらいの自分の娘に、「遠慮しないで好きなものをどんどん籠に入れなさい」と言っている。これ買って!あれ買って!と子供なら言うようなものだが、幼いうちから親に迷惑をかけてはいけない、と我慢している感じで、ちょっと可哀想だった。

 


小学校ではよく、我慢して欲しがらない事を美徳として生徒に教えるが、それも何か鬱屈していて偏った自制心を育んでしまう。

 


簡単なドリルを復習する回数を減らしたりして、合理的に他の勉強をしようとすると、ルールに背く事をした同級生を吊し上げるようなクラスの雰囲気になったりした。私は基礎的な計算やら、漢字の書き取りやらのドリルを13回も復習する必要はないと思っていたが、何故か担任はそれを怠る生徒は怠け者だと言う。けれども給食などでは図々しくても争奪戦に勝った子供が得をする事になり、なんだかよく理解できなくて非合理的な閉塞感が漂っていた。

 


ウィリアム・ゴールディングの小説「蝿の王」を読んで、漂流して子供しかいない無人島で生き抜く少年たちが、独自のルールを作る中で次第に殺戮に手を染めていく過程に、人間の本性を見た。

 


駄菓子屋で親にも気を遣うような子供の優しさは、競争社会の中では足枷になってしまう。

 


小説の中の少年たちも、元々粗暴な訳ではない。けれども発言権やグループを統率するための権力闘争や食べ物や火を巡って、対立していくのである。

 


子供の頃からあれが欲しい、これが欲しいと言えなければ言えないで精神に問題が起きやすいが、欲望に素直であっても問題は起きる。これが人間が抱える種としてのジレンマでもあり、人間らしさでもある。

 


蝿の王」の中では、太っていてピギーとあだ名をつけられている眼鏡の少年が、火を起こす為のレンズとして使うために眼鏡を奪われてものが見えなくなったり、太っている事で周りの少年たちから馬鹿にされたりする。

 


彼なしでは少年たちは生きていけないのだが、辛辣で的を得た事を言い、太っている彼はからかいの対象である。

 


ここに、ゴールディングの人間に対する観察眼の鋭さがある。

 


この小説は非難もされたが、子供の世界でも大人の世界でも個性的で配慮ある人間は排除されて虐められる傾向も強いという真実を私たちに突きつけたし、一般的に純粋で穢れのない存在として語られる子供達の見せる、真の人間の残酷さを克明に描いたからである。

 


大人になったからといって、誰もが他者配慮的な性格になる訳でもないが、他者に与える人生が損であると社会は暗に示しているように思う。

 


少しでもお金を多く稼ぐために、少しでも多くの美味しいものを食べるために、また社会的名声を得るために、競争を激化させていくのもまた、社会が求める価値ある人間の姿である。

 


個人としては富や名声が全てではないと考えていても、消費しないとやりきれないほどのストレスを受け続け、コーヒーやお酒への依存に似た刺激を常に求めているのが現代人でもある。それらの刺激と社会的な立場を得るために、みんな努力しているのだから、皮肉な構造の社会だ。

 


他者配慮的で、自ら競争の土俵を降りてしまうような人間は本当に損をしているのだろうか。

 


一見、それは損しているように見えるが、個人の幸福感とはまた別に、彼らは他者を助けているという、本人もあまり気づかない存在意義を私たちに示してくれているのである。

 


損して悲しみや怒り、失望感のみ味わっていても、数少ない人間という動物の善さと可能性を、その悲しみの中にのみ見出せる気が、私はするのだ。

 


先にも書いたように、我慢する事で精神的に問題が起きる場合も多く、人間は欲求に素直過ぎても問題が起きるし、禁欲的過ぎても問題が起きるのだが、相反するこの性質の葛藤が、人間関係の摩擦を産み、そしてそこから得た他者からの親切から私たちは大切な生きる糧、生きる活力を貰うのである。