kyoukokukenbunshi’s diary

狂国見聞史 生きづらい世の中に対して感じたことを書きます

私は誰?

私は誰?
 
私は、持病で統合失調症を持っている。子供の頃はよくむずかり、親から育てにくい子だと思われていたと思う。
 
病気の陽性症状が出た時は、自分がある組織から追われている、周りの人が知らない人まで私の悪口を言っていて、攻撃してくるという被害妄想に囚われ、次から次へと考えが湧いてきて、身体も持たないほど思考に合わせて動いてしまう。
 
だから、特に陽性症状を抑えるために投薬をしなくてはならないのだが、陽性症状が出た時の経験は、私たちが普段当たり前のように従っている概念というものを取り外したものの見方を私に示してくれ、時にここまで崩壊しつつある人間の社会を立て直すには、概念を疑ってみるという必要性もあるように感じる。
 
当たり前の事が当たり前でなくなる感覚は、人間が未来の自分に対しての理想を追い求める事、そのために身の回りの環境を破壊する事を厭わない事、すなわち我が身かわいさのために自らの首を締めてしまう思考と文化を、発展や成長という言葉で美化している事に対して、ある種の警告を与えてくれる。
 
仏教には、「私は誰?」という問いを繰り返し自らに問いつづける修行があるようだが、私は誰?という問いは、統合失調症の陽性症状が出ている私には、繰り返し現れるテーマの問いになり、その時に私が感じる自分は一人ではなくなっている。
 
陽性症状が出ると、「私は私一人しか存在しない者であり、鏡に映る自分の姿以外、目にする人は全て他人である」という概念が、完全になくなってしまうのだ。
 
私は誰?私は日本人で、葉という名前だ。
 
私は誰?私は私の両親の次女であり、姉にとっては妹である。
 
私は誰?葉とは誰?
 
私は私のようでいて、実は私の分身はそこら中にいて、私を見守っている。
 
私は、鳥でもあり、虫でもあり、空を飛ぶ雲の中にも分身を持っている。
 
…そんな事を、繰り返し繰り返し考えて、生活する場所を自ら捨てて、外国でホームレスのような状態になって彷徨っていた事もある。
 
車から撃たれたり、暴漢に襲われて死ぬかもしれないと思った夜は、集合住宅の屋根によじ登って、地上から何十メートルか上のところで、寒さに震えながら寝た事もある。
 
私は私一人ではなく、出会う動物も物の中にも私はいると信じていたから、敵も多いと思っていたが、不思議と私自身の存在意義をいつも以上に感じていた。
 
何が妄想や錯覚で、何が真実であるかは線引きが難しかったからこそ、何が私たち人間にとって当たり前の事であり、何を条件として人間であるのか、私であるのか、何の前提でもって社会の秩序を私たちが決めているのか、そして何より繰り返しメディアによって吹聴される大きな嘘を、何故多くの人が信じてしまうのか、概念を失う事でそれらの問題について考えるきっかけを得た。
 
私は一人しかいないという私たちが当たり前のように持っている前提を失う事で、私は周りにも混乱をもたらしていたのだが、そもそも私は一人しかいないという概念は誰が決めたのか。
 
私は誰?と問いかけて、私という存在を出会う動物や物の中にまで探すという行為は、周りの人間には奇異で混乱を生じさせる行為だったが、私はその時に街を彷徨っていて出会った、あるカメムシの事をよく思い出す。このカメムシこそ私が探していた、私を守ってくれる私だと思い込んでいたために、普段だったら何も考えずに追い払っていたかもしれないカメムシに対して、非常に優しく、触れも刺激もせずにただ観て感動していた。自然の中に自分の姿を見つけたように思うと、私たちはその自然を壊す事ができないのだ。
 
私=一人という概念が、自然の中で環境を壊さず調和と共存をしていく人間の能力を奪ったとは言い切れないかもしれないが、それに近いものはあるのではないかと私はカメムシの一件で思った。子供の頃から昆虫が好きではあったが、私=一人しかいないという概念を持っている、健康な状態の私は、嫌な匂いを出すカメムシをぞんざいに扱い、嫌って敬遠するという態度が普通だからである。
 
私は誰?私はこの生垣で触覚を開いて私に挨拶している、このカメムシでもある。
 
私は完全に、普通の概念を喪失していなかった場合には考えられない前提でもって、人間以外の生き物との交流にその時心を奪われていた。
 
自分がどこの街にいるのかもわからず、泣きながら何キロも歩いて、着のみ着のままで疲れ切っていたあの時むしろ怖いのは周りの人間だった。
 
けれども、人間が怖いという気持ちは、あながち被害妄想から来る感覚ではなく、今の世の中の狂った様子からみたら正常な感覚かもしれない。
 
思考方式の基礎にある人間の作り上げた文化が崩れてきた時に、その問題性が多くの人の目に見えないだろうから、人間の文化が環境を破壊しすぎて起きている気候変動は、あまり問題視されていないのである。
 
それが我が身に関わる事であると感じて、気候変動の危機に対して訴えている若者たちは、心の中で無意識のうちに自然と自分が一体であり、地球の痛みを我が身が受けた痛みであるように感じる、何かがあるように思う。
 
「気候を変えず、私たちが変わろう」と書かれたプラカードを持った若者を観たときに、彼らにとっては冷笑的な反応を示す世の中の人々が、陽性症状が出て街を彷徨っていた私のように怖く感じられるだろうと思った。
 
純粋な心というものは、危機感を失った者によって踏みにじられる。
 
例年にないほど暖かく、南極で気温が20度を超えた日もあった冬が、早くも終わって、もう桜が咲きはじめている。