kyoukokukenbunshi’s diary

狂国見聞史 生きづらい世の中に対して感じたことを書きます

心と人生

人は能力でもなければ学歴でもなく、家柄の良さでもなく、心でもって評価されるものだと思う事があった。

 


とかく私たちは他人と自分とを比較して相手を羨んだり嫉んだり、自己否定したがる傾向があるのだが、落ち込んで鬱っぽくなっている時は特にそうなりやすい。

 


昨日は落ち込んでいて母に愚痴ばかり言っていたら、「あんた、普段と違って足る事を知らないっていうか、ないものねだりになっていておかしいよ」と釘を刺された。

 


反省するばかりだったが、単純に目の前しか観ていない虫や鳥を観察していると、人間って虚しい悩みに囚われているからこそ人間らしいのだなあと思う。

 


もっと素直な心を表現して、欲があるにせよいつの間にか何がしたかったかもけろっと忘れられるほど単純になれないものだろうか、とつくづく思う。

 


悪い方向に考えていけばとことん悪い状況に陥るものだが、心が人生を創り、世の中が人の心の鏡になっているようにも思う。

 


お金だけを目的に競争に勝てば、人間は幸せになれると盛んに宣伝をしているが、お金だけが人間が幸せになる条件だと思い込んで不幸になっている人は沢山いる。

 


お金がなくて生活が苦しくて不幸を感じる人も沢山いて、彼らが世の中の大半を占めるとしても、心の暖かさでもって不幸でも幸せという人生を送る人もいる。

 


人の幸不幸は客観性でもってのみ語れる事でもなければ主観でもよく理解できない、全く雲のように掴み所のない概念だが、苦しくて幸せ、幸せだけど苦しいという相反する両価は、人の性質や人生そのものを複雑に、色鮮やかに彩っているのである。

 


病的で落ち込んでいる時ほどその人の本質が現れやすいと前に医師に言われて、その言葉に感銘を受けながら痛いものを感じた。

 


心を抉るような図星の指摘というものは、考え方や生き方にも影響を与えるもので、その指摘もそうだった。

 


明るく、悩みがないように見える前向きな人ほど、人に言えない深い傷を負って生きていたりして、ポジティブという言葉の裏には人生の傷が隠されているのだと強く感じる。

 


悲しい、悲しいと思いながらやけ食いをする余裕があるうちはまだ幸せでもあるし、絶望感に苛まれて本当に困窮している時に何くそと思って生きる場合もある。

 


その両方を経験したことがありながら、喉元過ぎれば熱さを忘れる自分が恨めしい。もっとも、先程、文章の中で何をやりたかったのかすら忘れる単純さも欲しいと書いたのだが、痛みに関してはなんだか別の思いが湧いてくる。

 


自分がもっと好条件に生まれついていたら、とつい考えてしまうのだが、これは本人にはどうしようもない。

 


頭で受け入れられなくても受け入れざるを得ない。

 


好きで私を生きている訳ではないが、私を生きざるを得ないから私を生きているのである。

 


これが、みんなが自分に対して不甲斐ない感覚を覚える所以なのだろうか。

 


もっと苦しんで生活をしている人たちに対して、暖かい世の中になってくれたらと思うが、みんな自分が下駄を履かせてもらって生きている場合には、自分の足元が見えないのかもしれない。

 


競争による格差が、ここまで人を悪魔にしてしまうと、心というものは幸せよりも捉え所のない、不可思議なものになってしまうのかもしれない。

 


そんな中でも、愛ある心を見つけて忘れない人たちにエールを送りたい。