kyoukokukenbunshi’s diary

狂国見聞史 生きづらい世の中に対して感じたことを書きます

懐かしむ事

私が幼少期を過ごした地域には、その時代は「なんちゃって西洋」の雰囲気が漂う喫茶店があった。今はもうない喫茶店だ。

 

バブルの名残を感じさせる平成初期には、デパートも地方にあったし、300円のくじを引くだけでカセットテープが中に仕込まれた、しゃべる熊のぬいぐるみが当たったりもしたし、サンリオの店の前で遊んでいるだけでお店の人がお菓子の入った布袋を一人に対してひとつくれたりしたものだから、当然喫茶店にも少し高級感があった。

 

茶店に頻繁にいけたわけではなかったが、私と姉はその喫茶店で売っている焼き物の動物の人形が欲しくてたまらなかった。

 

ウサギや鹿、犬や猫などの人形を、何年もかけて少しずつ買って貰って、その中の羊の人形には私が服や小物を作って、姉を遊びに誘う口実にしていた。

 

未だにその羊の人形を取り出して見ることがあるが、子供の手でミニチュアの服にバラの花の刺繍をしていたり、フェルトに洗濯のりをつけてボタンにかぶせて形を作り、ベレー帽にしていたり、暇だけは十分にあった子供時代にはこだわりを見せる余裕もあったものである。

 

それらを見ては過去を懐かしんでいるわけだが、懐かしむ事には何か今に生きる自分自身を慰めるような、勇気づけるような、そんな不思議な要素がある。

 

言ってみれば大概の人は過去の経験を思い返しては過去の自分をうらやましがったり、今はこうなっていて良かったかなと安心したりするのだが、疲れたときにお茶を飲んだりコーヒーを飲んだりするように、時間の概念の中に生きる私たちの「現在の時間」を奪い取ってくれるような、そういうものなのだとも思う。

 

なかなか子供の時に好きだったものが捨てられないタイプなので、壁に昆虫の標本が入った標本箱が未だにあったり、焼き物の人形もクリスマス時期には小さなクリスマスツリーとともに飾られたりするが、それらは物として見たり触れたりしているのではなく、私にとっては時間を見たり触れたりしているのだから、小宇宙でもある。

 

時々、意味不明な文章が書いてある紙切れや、道ばたで拾ったがらくたなどもクローゼットの奥を整理していると出てくるが、自分の歴史や軌跡を見ていると、忘れていることが多いなあと感じる。

 

自分のことを忘れているというのは幸せなことでもあり、寂しいことだが、私が私を生きるためには経験の軌跡を知ることも重要なことである。

 

苦楽をともにした部屋を一時期はひどく嫌ったが、今は快適になったのも、あちこち渡り歩いてみても私は他の人間にはなれず、結局どこで生活しても幸せになれるかなれないかは自分次第だということを学んだからだと思う。

 

コロナ禍でどんなに行ける場所が限られても、例え病院の部屋に隔離されようとも、懐かしむ事が心の中に小宇宙を作ってくれる。近くに思い出の「物」がなくても。

 

人の感覚は苦悩にとらわれ始めると、全神経とすべての時間がそれに集約されてしまい、「人生すべてが苦しい」という感覚に陥ってしまうが、それは今の時間の中には自分の心を客観視できる距離はなく、苦しいと思う心そのものがその人、我が身の最小単位で最大単位になってしまうからだと思う。

 

今経験する時間と心に対する距離は、懐かしむ事ができると、私を支える私となり、今の時間のみに私は縛られなくなる。

 

余裕無く人々が走り回り、攻撃的な言葉が飛び交う今の時代、バブルの名残が感じられ、何でもできるような気になっていた時代、それぞれの時にも深刻な問題はあったのだが、可視化されない問題は封じ込められて忘れられ、可視化すればお金になる問題だけは紙面に取り上げられるようになり、私たちは真実という物も心という物も、どういう本質を持っていたかを忘れてしまっているかのように生きている。

 

けれども唯一、懐かしみ、ふと童心に返るときには、何故か真実についても心についてもそのものを疑いもせず私たちは理解できている。

 

競争を嫌う私は戦士としてはできそこないだが、もっと人の痛みや苦しみを和らげることはできないだろうか、と自問して生きている。

 

大きな事はできなくても、人々がピュアな感覚を取り戻す瞬間を見ると、生きていて良かったかな、と少し思える。

 

だから、無心になって何かを追い求めていた若いときの感覚という物を、もっと社会が大事にしていたら、もう少し救われる人もいるのではないだろうかと考えている。

 

スペイン映画の「ミツバチの囁き」の中に、フランケンシュタインを探す主人公の少女と、脱走兵の交流のシーンがある。人に見つかることを恐れていながらも足を怪我して思うように動けない脱走兵は、彼をフランケンシュタインだと思う少女アナがリンゴをくれた瞬間から、心を開く。

 

アナの記憶の中には、「フランケンシュタインにリンゴをあげた」という単純なものしか残らなくても、食べるものを自力で探せない脱走兵にはどれだけ大きな助けになったかを、私たちは映画を通して知るのである。

 

そういう素朴な親切心が大人の心に残っていたら、もっと世の中は良くなると私は映画を見て思った。

 

幼い私が姉と遊びたい一心で羊の人形に服を作ったのは遊びたいという下心からしたことだが、もっとシンプルに、もっと大胆に、誰かを喜ばせるために(お金にならない)何かを作るという事も、大人の仕事なのではないかと感じる。