kyoukokukenbunshi’s diary

狂国見聞史 生きづらい世の中に対して感じたことを書きます

最後の時と瞬間に生きる決意

 


1日の中でも感情の起伏が激しい時があり、落ち込んでいるかと思うとお茶を飲んではケラケラ笑っていたり、自分でも「さっきまで泣いていたカラスがもう笑っている」という言葉を実感する。けれども、そうしていると一瞬のその時を真剣に生きている意識もある。

 


考えてみれば、自分の名前を後世に残すために頑張るのでもなく、人より高い地位に落ち着いて豊かな暮らしをするために頑張っているのでもなく、瞬間を生きる感覚と決意というものは生活の中で重要な意味を持つものなのだとつくづく思う。

 


どちらかと言うと、生きていると嫌な事の方が多く、夕飯にサラダを作りたくてスーパーに行くと何もかも野菜が値上がりしていて、安いレタスだけで不平を言いながら帰ってくるという事も多々ある。

 


頑張って節約して貯めたお金で何かしようかと思っていると、お腹が痛くなったりして病院に行き、検査で財布が空になるという事もよく起きていたものだ。

 


ブーブー不満を口にしながらも淡々と生活していかなくてはならないのだが、いずれ自分の命も終わるという事を意識すると、リスクを避けて生きるという賢い選択に対して疑問も湧いてくる。

 


元々あまり健康体ではなく、計画通りに充実した生き方をしてこなかったので、より一層、人生計画を立てる事の無意味さについて考えるようになったのだ。

 


資格や学校というものが、就職には有利に働くからこそ、学業に精を出すべきと言われるが、答えのない事に対して答えがわからないから努力して考え続けるという行為に対しては、無駄な思考として切り捨てられてしまうきらいがあるように私には思える。

 


おばあさんと孫がいたとして、おばあさんの子供が仕事などで独りになったおばあさんの面倒が見られない場合、比較的近くにいて生活も共にできる孫がおばあさんの世話を引き受けたとする。

 


重要な事の判断を孫に任せられず、子供に色々な説明をしてもらいたがるおばあさんにストレスを感じ、自分がおばあさんの側にいる意味はないのではないかと孫は悩む。結局孫の方がストレスで体調を崩しておばあさんの元を去り、おばあさんが孤独死してしまったとする。

 


周りはそれはおばあさんの子供が面倒を見れば良かったと言うかもしれないが、仕事で手一杯の場合には自分の親といえど殆ど何もできず、同居する余裕もなく、孤独死はやむを得なかったのではないかと本人達は納得しようとする。あるいは、誰かヘルパーを雇ってあげたりすれば良かったのではと思うのだが、最後に独りにしてしまった事実は悔やみきれない。

 


孫の方は、自分が具合が悪くなっても側にいてあげるべきだったのではないかと、おばあさんの死後も悩み続けるとする。けれども、一緒にいたとしても逆に自分が具合悪ければ余計に負担をかけたのではないかと思ったりもする。

 


介護まで必要という訳ではないおばあさんの自由を奪い、施設に入れるのも無理があったりする。おばあさんは、住み慣れた家にいたいと言う。

 


そこに正解はあるのだろうか。

 


それとも彼女の死後にみんなが忘れてしまえば楽になるという問題なのだろうか。

 


この例は私が実際に経験した事なのだが、人の生死に関わる事には誰も正解は答えられない。

 


誰もが自分の人生の最後が孤独であるかもしれないと思うと不安になるが、自由に身体が効くうちは何でもできるから独りでも怖くないとも思うものだ。

 


不自由さを感じるようなハンディを負った瞬間から、人は生きる事に貪欲になる。

 


あるいは絶望感から自死したいと願っても、いざ自らを危険に晒そうとしても身体が思うように動かない事もある。

 


自殺の大半は「自殺に成功してしまった」とも形容できるかもしれない。

 


芥川龍之介は人生は先に経験する事ができず、水泳も泳ぎ方を習ってからやるものなのに、人生は全く初めての事なのにうまく切り抜けなくてはならない事になっているのに疑問を記している。

 


考えなければそつなくこなせるかもしれない事を、わざわざ難しく考えて困難にしていると言われればそれまでかもしれないが、人間は今まで考えずに文明を築き、考えずに消費し、考えずに繁栄する事で、今のような希望の持てない世の中を築いてしまったのではないだろうか。

 


目に見える成功のために尽力する事が大切と思われるが、実は正解のない事に対して心を尽くすというものが、これからは価値ある事になるのではないだろうか。

 


利益のために器用に生きる事よりも、やるせなさを抱えながら悩み、考える事にも価値はあるし、損ばかりとは言えない気がするのだ。

 


今という瞬間を感じて生きる事と、答えのない物について考え続ける決意と、それらが明日の私を支えてくれるという事実。

 


先が見えない世界には、考えという灯りが必要なのかもしれない。