kyoukokukenbunshi’s diary

狂国見聞史 生きづらい世の中に対して感じたことを書きます

生きる苦しさ、不器用な愛おしさ

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黒澤明の映画「生きる」の感想

 

(ネタバレ注意)

 

 

 

感じるとはどういう事なのか。

 


黒澤明の映画「生きる」を観た。ずっと観たい、観たいと思っていたのに、なかなか観る意欲が起きなくて、今になってしまったのだが、本当に観て良かったと純粋に思える映画だった。

 


集中するのが難しくて、映画を観るにもエネルギーがいるのだが、「生きる」には時間を忘れさせてくれるものがあった。

 


主人公は、胃の具合が悪くて行った先の病院で、お喋りな男性の余計な言葉のために、自分が胃癌に罹り、余命幾ばくもない事を知る。

 


無気力に時間を潰して自分の立場を守ってきただけの人間が、人生のタイムリミットを突きつけられて初めて、生き甲斐を求めて真剣に生きようとする。

 


自殺しようと薬を手に入れても死にきれないと、たまたま出会った小説家に話す彼は、小説家に連れられて生きる楽しみを知ろうと夜遊びに出かける。どの遊びも死の観念の前には虚しく映る。

 


無欠勤で何十年も役所の市民課に通って働いていた彼が、初めて欠勤を繰り返す。

 


仕事中にもケラケラと笑う部下の女性は、つまらない役所の仕事を辞めようと、辞表に必要なハンコを貰いにやってくる。彼女の快活なエネルギーに触れると、主人公も元気を貰って笑顔になる。

 


彼女の快活さは単に若さ故だけではないようなものがある。役所の仕事を捨てて貧しさから靴下にも穴が空いたままほったらかしにしている彼女は、主人公に奢られるままにお汁粉でもケーキでもすき焼きでもとにかくよく食べるし、よく笑う。彼女が彼につけたあだ名の通り、ミイラのように生きてきた主人公とは対照的に、常に生きる楽しみを探す彼女は、毎日ウサギのおもちゃを作るだけでも、日本中の赤ん坊と仲良くなれたという気持ちになり、仕事に精を出すのだ。胃癌になり、余命が幾ばくもないと打ち明けた主人公に対し、彼女は「こんなもんでも、作っていると結構楽しいわよ。課長さんも、何か作ってみたら?」と言う。

 


ウサギを彼女からひったくり、誕生日会に沸き立つお金持ちの家庭の学生達の歓声を聴きながらカフェの階段を駆け降りていく主人公は、初めて生きる事に貪欲になったかのようだ。

 


主人公の一人息子は、父親の手だけで育てられ、戦場に駆り出されても帰って来られた運の良い若者だが、義父の退職金や貯金を当てにして自分達の新しい家を建てたいと言う妻と一緒に、自分の父の気持ちも病気の告白も無視してしまう。

 


身近な人だからこそ言いにくい事、自分の親に対してだからこそ見せる甘え。家庭の中で孤立していく主人公の気持ちは、赤の他人の方が受け止めてくれる。

 


誰も好きで産まれてくる訳でもないし、好きで病気になる訳でもないのだが、大抵、人は社会的立場を得ないと生きていけないと、必死で自分を押し殺しているうちに、何もしない事を選ぶようになってしまう。

 


何かしているとすると、権力者へのゴマスリだったり、役所に公園を作って欲しいとお願いしに来る市民をたらい回しにする事だったりする。

 


これは、私達にも言える事で、楽な人生を送るためには強い者に媚び、責任が起きたり波風が起きる事は他人に押しつけて逃げるという「器用さ」を学ぼうとするものだ。真剣に問題に取り組み始めれば、危険な事も起きるし周りからの妨害も始まる。

 


何もしないために全力を尽くす。

 


それは今の世の中にも蔓延っている。

 


病気が主人公を変え、死を目前にして必死に生きようとし始める主人公は、自分が他の課へたらい回しにしてきた公園作りの要望を、初めて真剣に観て、実際に公園作りに残りの人生を捧げるのだ。

 


同じものを観たとしても、心の目は眼球と一緒に開いている訳ではない。

 


病魔に蝕まれた身体を引きずって、次の課長の座を巡る周りを唖然とさせながら、主人公は市民の声を聴きに自ら歩いていく。

 


孤独でありながら、独りぼっちではない。

 


苦しさをバネに、初めて生き始める主人公は、愛おしく人の目に映る。

 


公園を作るために助役室に通う主人公の行手に、雇われたヤクザが立ちはだかっても、彼は怯まない。余命が僅かしか残されていない主人公に対して「命が惜しくないのか」と脅しても、全く意味がない。

 


観るとはどういう事なのか、聴くとはどういう事なのか?そして、感じるとはどういう事なのか。

 


何に対しても反応を示して来なかった主人公が、死を目の前にして急に生き始める様子は、私たちは残酷な現実を知らない限り、心を持てないと暗に私達に示してくれているのか。

 


主人公は死ぬ。彼のお通夜の席で、彼の公園作りを妨害した助役達は仕事の業績を自分のものにしようとする。

 


酒に酔いながら主人公の思い出を語るうちに、皆、彼が自らの死期を悟っていたのだろうかと気づき始める。

 


人は皆いずれ死ぬのだが、長いようで短い人生の中で、それぞれ虚しい夢を見て生きているかのようだ。

 


学業、仕事、結婚、退職、人は色々な経験をしても生活に飽きたらないもので、もっと良い暮らしをしたいとか、もっと良い肩書きが欲しいとか、上辺の幸せを追い求めて毎日画策する。

 


しかし、主人公が命を削って公園を作ろうとする過程には、キラキラした飾りのようなものは何もなく、周りから煙たがられてより一層孤立を深める。

 


考えてみれば、私達が何かしようと思いたち、行動し始めると、大抵の場合、周りからの理解は得にくいものだ。

 


家族が心配して反対してくる事もある。映画の中の主人公の息子夫婦のように、親のお金の事を考えていて、すれ違ったまま親を失う人達もいる。

 


考えてみれば、人の人生とは不思議なものだ。人生の計画を入念に立てて、勉学に精を出して、給料の良い仕事に就こうと子供の頃から考えていても、家庭の事情や健康の事情で挫折する人は沢山いる。

 


仕事に精を出せていて、努力の甲斐あって成功していたような人でも、突然働けなくなる事があったりする。

 


この場合を考えると、挫折とは何なのか。挫折や絶望とは、人が真剣に考えて生き始めるきっかけになるのではないか。

 


私は「生きる」を観て、そんな事を考えた。

 


主人公の職場で、彼の相談に乗ってあげた女性の他にもう1人、心優しい男性職員がいる。彼は主人公の業績を横取りしたがる同僚や上司に、お通夜の席で独り噛み付く。

 


一時、主人公の死からあるべき姿を学んだかのように見える周りは、酒を飲んで酔っていただけなのである。

 


人間という集団の虚しさを感じさせつつ、孤独な人間の優しさだけが希望として余韻を残す。

 


それが、この映画が名作と言われる理由なのだろう。