kyoukokukenbunshi’s diary

狂国見聞史 生きづらい世の中に対して感じたことを書きます

事故に対する心理

福島第一原子力発電所の事故によって大量の汚染水が溜まっているが、それを日本政府は海洋放出すると決めた。

 

福島の漁師の方が怒っている映像がニュースで流れていた。風評被害の抑制に努めると政治家は言うが、漁師の人にとっても魚を食べる私たちにとっても実害である。

 

けれども、コロナは怖がらないといけないことになっているが、放射能は怖がってはいけないという表向きの「社交辞令」がある。

 

正しく怖がるという言葉もなんだかおかしいのだが、原発事故もコロナウィルスも、それらを巡って人々を対立させ、孤立させる材料となってしまった。

 

私たちはこれから、何を信じて何を発言していけば良いのか、全くわからない世界に放り込まれてしまったのである。

 

人が信じることは、その対象に対する恐怖や愛がはっきり現れる。ネットの世界ではみんな自分の負の感情を素直に出しがちなのは、スマートフォンやパソコンといった機械を手にすることで、日記を書く感覚で気持ちを吐露し、すっきりすることができるからでもある。

 

炎上したり攻撃を受けたりもするから怖い媒体をみんなで使うようになったのであるが、人に対する限りない優しさに触れることもあるから、不思議なものである。

 

ところで、人は自分にないものを気にして前に進めないことが生活するうえで苦しみになってしまう。ネット上で他の人がちょっとでも自分よりも良い暮らしをしているように見えると、とたんに自己嫌悪に陥ってしまうことがある。

 

そこで辛い気持ちを発散させるためにコンビニに行って普段は買わないお菓子や飲み物を買って憂さ晴らしをすることもあるのだが、恵まれているように見える友達と実際に話してみると、みんなそれぞれもやもやしたものを抱えて生きていることがわかってびっくりする。

 

私の母に長年嫌がらせの手紙を送りつけてくる困った母の知り合いがいるのだが、彼女が株で数千万円すったという話を聞いて、数千万のお金がない周りの人たちはみんな唖然としていたらしい。お金があっても愛を知らない人は、獣のようになってしまう良い例だと思った。

 

例のコンビニが野菜を置いてくれているので、よくスーパーの代わりに野菜を買いに行くのだが、帰り道の道ばたに蟻が巣を作って働いていたり、雑草が力強く芽吹いていたりするのを見ると、なんだか救われたような気持ちになる。

 

今の状況から脱しなければ幸せになれないと、とにかく人は考えがちだが、結局あちこちで放浪してみると、どこへ行っても自分次第なのだと気づかされる。

 

けれども、故郷の地を放射能で汚されて帰れなかったり、仕事が成立しないという問題は、福島だけでなく、世界全体に広がっているのである。

 

簡単な解決策は、犠牲を知っても知らないふりをして別のことを考えることなのか。

 

仕方ないという言葉を聞くたびに、悲しい気持ちになってしまうのである。