kyoukokukenbunshi’s diary

狂国見聞史 生きづらい世の中に対して感じたことを書きます

苦しみは新鮮さを失わない

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何が私の本当の性格なのかよくわからない。最近、色々動けるようにはなったが、朝に鬱状態になる事が多く、よく落ち込んでいる。ポジティブさもネガティブさもどちらも本当の性格なのだろうが。

 


明るい人になったと人から言われる事もあるが、一日の大半はネガティブな事を考えて過ごしている。

 

 

 

それでも、人生の辛さを悲しんで世の中を憂いている人同士の心の触れ合いが、救いになる。

 


苦しみは鮮度を失わない。何回経験しても、あまり慣れない感情が苦しみだと思う。

 


物質的に満たされる事や、社会的に成功する事が直接幸せに繋がらない事も、よく考える。

 


身近な生活から気づきを得るために必要なのは、自分の感覚に耳を澄ませ、なるべく純粋な気持ちでいられるように努力する事かもしれない。

 


悪魔のような自分の一面は人や自分自身を傷つけて破壊しようとするかもしれないが、何か苦しみを感じる瞬間というのは限りない孤独や、人から見放されたような喪失感がそれらの原因になる。

 


言ってみれば人は孤独でありながら独りぼっちではない、不思議な生き物で、何かしら人の支えで生きているにも関わらず、差し伸べられた助けの手が見えない事も多いのだ。

 


今は人情のようなものも消えて、家族間でのコミュニケーションも希薄になって、携帯電話のみを頼りに生きる人も多いかもしれないが、遠くなった人との距離が携帯電話や電子メールの普及によって埋められているような時代である。

 


それだけに、生身の人と会い、話す時間というのは価値があるように感じる。

 


電話やメールで限られた内容だけ話すのとは違い、一緒にいて沈黙する時間や考える時間、共に歩く時間がくれるもの。

 


見聞きする風景や街の表情が、また違ったものに見えるのがいい。

 


よく母親と一緒に買い物に出かけるのだが、歳を取って腰が悪くなり、重い荷物が持てない母の代わりに私が荷物を持つ。

 


桜の季節には桜の木の下で花吹雪を浴びながらスーパーに行き、駅まで行く時には雑草が花をつけているのを観ながら雑談をして歩く。

 


辛いなと思っていても、それで少し辛さが和らぐ。

 


苦しみは鮮度を失わないと感じるが、人生は常に上り坂で荷物を持って上がっていくようなものだ。

 


あまり社交的な性格ではないので友達が多い訳でもないのだが、人に助けられて生きているのだなと痛感する。

 


人はなかなか本当の意味でへこたれずに生きるのが難しい。理屈だけでは気持ちは処理しきれず、負の感情に向き合うのはエネルギーがいるから、だんだん空元気を装って自分を騙すようになってしまうのだ。

 


心が素直であればあるほど、苦しみも一層強くなるかもしれないが、それだけ腐敗した世の中に立ち向かうためには純粋な苦しみが必要になってくるのだと思う。