kyoukokukenbunshi’s diary

狂国見聞史 生きづらい世の中に対して感じたことを書きます

挫折は悪い事なのか

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コロナ禍の不況によって、職を失ったり、学校に行けなくなったりして苦しむ人が増えている。

 


挫折とは苦しい事なのだが、挫折を経験しない人生が本当に意味があるものなのかについてよく考える。

 


つい最近まで、あまり文章も書けず、本も読めず、映画も観る気力がなく、ただ家で寝ているだけという状態が続いていた。何も興味が湧かないので、携帯の画面を観ていたが、つまらなかった。

 


頭がボーっとする副作用のある薬を常用しなくてはいけないので、薬が新薬に切り替わるまで、怠くてやる気が起きない生活を3年くらい続けた。

 


途中で飲食店で働いたりもしたが、持病が悪化して辞めた。朝4時に起きて、夏の朝焼けの空を観ながら出勤するのは辛くもあり、幻想的な朝焼けの空に励まされる日々でもあった。

 


身体が辛いのは薬の副作用でもあるのだが、陽性症状が酷くなってくると今度は動き過ぎてしまい、被害妄想も激しくなるので、ほどほどの量で仕事を辞められたのは正解だったかもしれない。

 


薬を常用していると、車の運転もできないし、本も読めない、集中力がなくなる、手が攣る、物忘れが激しくなると、これだけで自分が駄目な人間になったような気持ちになるので、挫折と言えば挫折である。

 


見た目は健康そうに見えるらしいし、確かに精神障がい以外は血液検査をしても異常がないと言われるので、思うように働けないと言うと、新聞の集金に来る人や髪を切ってもらう美容師さんまで意外そうな顔をする。そこでも自分では頑張って生きているつもりでも周りからは怠け者に見えるのかなと落ち込んでしまう原因になる。

 


それも挫折というか、自己嫌悪に陥る要因だ。

 


そもそも幼稚園の頃からずっと集団に馴染めず、何かというといじめられてじっと我慢し、我慢できなくなると爆発して人に当たり、具合が悪くなる事の繰り返しで、いくつになっても同じ問題を繰り返している気がする。もちろん、私だけがいつも被害者なのではなく、人に対して攻撃的な態度を取ったりもしたので、自業自得の面はあるのだろう。

 


社会的に成功するとはどういう事なのだろう。友達が沢山いて、仕事が人よりもできて、家庭を持ち、お金を沢山稼いでいて、それなりに健康でいられたら、幸せだという事だろうか。

 


順風満帆のように思えても、心の隙間風のように忍び寄ってくる寂しさや虚しさは、もしかしたら人間にとって一番重要な感覚であって、無視しては生きられないものなのではないかと思う。

 


空っぽの自分を見つけると、何かが出来るから人生には意味がある訳でもないと感じ、ただひたすら自分が存在する事の残酷さに打ちひしがれるのだ。

 


手慰みにやっている事の数々は、寂しさを忘れるためにやってきた埋め合わせ、代償行為であり、仕事も勉強も遊びも、何もできない、何もしないという行為の前では全く無力なのだと気付かされる。誰もがそれで不安になる瞬間があるのだ。

 


私の祖母は、亡くなるまでの数年を、ほぼ寝たきりの状態で過ごした。パーキンソン病だったのだ。特養の施設の中で入れ歯を飲み込んでしまった時も、自力で何も訴える事もできず、叔父が気づいて病院に行くまでそのまま苦しいのを我慢していた。

 


声も出せず、寝返りもうてない生活をしながら、最後まで辛抱強く生きた。

 


気持ちが落ち込んだ時に、祖母の事を思い出す時がある。

 


私は辛抱強くもなく、努力が足りないかもしれないが、何もできないとは非常に意味があると思う事がある。

 


挫折する事は本当に悪い事なのだろうか。私は違うと思う。

 


挫折して苦しいのは主観であり、いかに人が周りの目を気にして不自由な生き方をしているのかと感じる。

 


多分、死ぬ直前にならないと気づけないかもしれない生きる意味も、常に感じる虚しさも、密やかに考えるネガティブな感情も、お金や社会的立場では測れない価値のある事なのだ。

 


そしてそれに気づける唯一のきっかけは、挫折する事なのかもしれない。