kyoukokukenbunshi’s diary

狂国見聞史 生きづらい世の中に対して感じたことを書きます

かたぬき


昨日は用事のついでにあるショッピングモールに行ったのだが、そこで駄菓子屋を見つけた。今まで入った事がなかったので、入ってみた。

 


子供の頃に好きだった、にんじんの形をした袋に入ったポン菓子はまだ売られていて、懐かしくてそれを買うと同時に小さな箱に入ったかたぬきを見つけてそれも買ってみた。

 


かたぬきは縁日でもやった事がない。今はコロナのために、かたぬきを作っている会社が疲弊して、かたぬきがもう作られなくなるかもしれないらしい。

 


そういう前情報があったのと、あまり集中力がない時にでもかたぬきに挑戦する人の動画を見られたという経験があったため、絶滅の危機に瀕したかたぬきに興味を持ったのである。

 


最近は、フェイスブックを辞めたので、ニュースをあまり目にしなかった。ようやく新聞を読む気になったので、新聞をちらちらと読んでいるが、フェイスブックで知り合い達が新聞記事やネット記事のファクトチェックをしていたのを思い出す。人間、自分が正しいと思う媒体で、直感が欲する刺激のみを頼りに記事を読んでいると、その記事に書いてある情報のみが真実だと信じるようになってしまう。

 


かたぬき絶滅の危機のような記事は、嘘はないかもしれないが、世に溢れる情報は混沌とした真実から少しずつつまみ食いのように切り貼りし、脚色された記事である事も多く、権力者は脚色された嘘の記事を書かせるためにメディアを牛耳る。

 


善意あるジャーナリストが脅迫や圧力に苦しみながら記事を書く実情は、多くの人には関心が薄い事実なのかもしれない。

 


人がある対象について語る時、直感と推測に頼って自分の脳の中で思考が広がっていく感覚を覚えるが、現実を目の当たりにした時に言葉を失ってしまう事もある。文字通り、絶句した時というものが人間が人間らしく感じ、考えている瞬間だと思うし、真実に気づく瞬間でもある。

 


ケン・ローチ監督の「私はダニエル・ブレイク」という映画が好きで、時々観る。心臓に障害を抱えて働く事が難しい、大工のダニエルは、生活保護を申請する窓口で、意味のない質問にいらだち、パソコンが使えないのにインターネットで申請書を書かなくてはならないと言われ、翻弄されているうちに困窮していく。同じく、申請窓口で冷たくあしらわれた母子に、彼は自分も苦しい中、救いの手を差し伸べる。

 


ケン・ローチの描くイギリスの現実は悲惨だが、ケン・ローチ自身、政府からまるでまともに向き合ってもらえず、冷たい仕打ちを受けているという。

 


細々とかたぬきを作って子供を喜ばせてきた会社も、どこの店も困窮する中、人々は厳しい現実に直面している。

 


私もいつ路頭に迷うかわからないと思いながら、政府が比較的余裕のある世帯に向けた支援やオリンピックの開催可否にだけ目を向けているのが、精神の死のように感じられるのである。