kyoukokukenbunshi’s diary

狂国見聞史 生きづらい世の中に対して感じたことを書きます

孤独


コロナ禍以前から、日本では「おひとり様専用」のサービスがあり、カフェで働いていた時はランチタイムに一人用テーブルを用意したりした。もちろん、複数人で使うテーブルをたくさん用意するとカフェの効率が悪くなり、売り上げが減るからそうしていたのだが、ネットカフェやホテルなども一人で利用するお客さんが多く、私もよく一人で飲食店を利用し、一人旅にもよく出かけた。

 


30代半ばも過ぎると、寂しくてたまらなくなるよと周りからよく言われながら歳を取った。自分が歳を取ると、なるほど、その言葉の意味がわかるようになってくる。

 


だからどう出来るという訳ではないが、両親と一緒にいても孤独を感じるし、コロナで友達と会うのもままならないと、ますます孤独になる。

 


という事で、孤独について一人で色々考えてみた。

 


そもそも、孤独を感じるのはどういう時かというと、私の場合は気持ちが落ち込んで鬱っぽくなっている時が多い。両親がケラケラと笑い話をしていても夫婦喧嘩をしていてもうるさく感じ、家を飛び出したくなる。

 


寂しいと感じながらも、一人にもなりたいという矛盾した気持ち。そこに整理はつかない。

 


この間、精神科医に鬱っぽくなると相談したら、それは個性みたいなものだよ、とあっさり言われた。ケーキが人生だとすると、悩みはケーキの上に飾られたイチゴやアラザンやクリームのようなものだと。飾りがないケーキは味気ない。

 


そういうものなのかと考えてみたが、寂しい病の鬱っぽさというものは、家族がいるから解消されるというものでもなく、友達と遊んでいるから解消されるというものでもなく、ふと自分も歳を取って一人の力では生きられないという事に気づくから自覚するものかとも思う。

 


若いうちは多くの人に支えられている事にも気づかず、何でも一人でやれるような気でいるが、挫折や失敗を繰り返すたびに自分が至らない存在で、一人きりでは生きていけないのだと気づくようになる。そこで初めて、みんなそれぞれ孤独だという事も知るのかもしれない。

 


東京で一人暮らしをしていた時、既に亡くなっていた祖父母の家に住まわせてもらい、固定電話の番号も祖父母が使っていた番号を引き継いで使っていた。

 


祖父母が契約していた保険会社やら、掃除用品の会社やら、ミネラルウォーターの通販の勧誘の電話まで色々かかってきたが、ある時電話を取ったら、祖母の友達からだった。

 


祖母が亡くなった時に、あまりにも急で慌ただしかったため、私たちは祖母の友達全員にまで、彼女が亡くなった事を知らせる事ができなかった。

 


祖母の友達のおばあさんは、私が孫であり、祖母はもうすでに亡くなっている事を伝えたら、ショックで取り乱して泣き出した。

 


「私たちはずっと友達で、ずっと仲良くしてきたんですよ。それが、亡くなったなんて…私の友達は、もうみんな亡くなって、貴方のおばあさん意外はいなかったんです。それが、○○ちゃんまで亡くなったなんて…もう、私はひとりぼっちなんです。貴方にこんな事を言っても仕方ないですけど、歳を取るっていうのは、本当に寂しい事なんですよ。さよなら。」

 


彼女は私と話すのも耐えられず、泣きながらそう言って電話を切った。私も泣いていた。

 


最後に祖母の姿を見た時も、祖母は別れが辛くて泣いていた。私は祖父が亡くなった後の祖母が心配でしばらく一緒に住んでいたのだが、自分の生活もあって出ていかざるを得なかったのだ。マンションの廊下で泣きながら私を追いかけて泣いていた祖母が、最後の祖母の姿だったのだ。それが、何度思い返しても独りぼっちにして悪かったなと感じる。

 


あれから何年も経ち、未だに寂しさを感じると祖母や祖母の友達の言葉を思い出す。

 


私も寂しい年寄りになるのかもしれないが、彼女達の涙の意味は、まだよく理解できていないと思う。

 


祖父母の家に住んでいた時に近くで知り合った人が、Instagramをやっていたので近況を少し知る事ができた。仕事で身体を壊したのか、視力が落ち、腰も痛めているらしかった。

 


懐かしさから話してみたくもなったが、辞めてしまった。なんとなく、その人の事をまだよく知ってないし、色々迷惑もかけたのに気軽に声もかけられないと感じたからだった。

 


同じ時期に英語を少し習ったイギリス人は、何年も前に日本を離れてネパールに行き、日本語と英語を教えているようだった。

 


色々な人と知り合い、楽しい事も悲しい事も経験したが、みんな一様に寂しさを感じながら生きているのだと思うと、今の自分が惨めなだけではないと思えた。

 


ただ虚しさを埋め合わせるためだけに友達と話しているつもりでも、そのやり取りの意味は、生きている限り何回も思い返しているうちに、深みを増していくのだと痛感した。

 


何度も何度も挫折を繰り返すうちに、人は孤独であっても周りの人達の優しい心を知る機会を得る。

 


何か苦しい事があった時は、昔関わった人の言葉が助けてくれる。

 


その中でも、亡き人の言葉は、真に迫るものがあるから、不思議である。