kyoukokukenbunshi’s diary

狂国見聞史 生きづらい世の中に対して感じたことを書きます

不自由の死と自由の死

コロナ禍を機に、急速にタブーが増えてきている気がするのは、私だけだろうか。

 

以前は原発事故への不安を口にする事がタブーであったが、今はワクチンに対する不安を口にするのがタブーである。

 

昔、東京に住んでいた時に通っていたダンススタジオのギャラリーでは、元々、チベットへの弾圧や戦争の記憶を語る内容の展示が行われてきて、オーナーのご夫婦も極めて平和を愛する人達だったので、私はよくダンスを習いに通った。

 

コロナでダンス教室にも生徒が集められず、舞台もオンラインで配信したりと苦戦していたようだが、東京で「表現の不自由展」を開催するための会場としてそこが予定されていたらしい。

 

しかし、マスコミが東京での「表現の不自由展」会場について報道した結果、オーナーご夫婦が疲弊するほど酷い抗議や妨害が頻発したらしく、やむなく会場を変更する事になったらしい。

 

完全に「表現の不自由展」になってしまっている訳だが、何故ここまで不寛容で攻撃的な社会になってしまったのか。

 

人の良い、笑顔が素敵なオーナーご夫婦の事を考えると、心が痛む。

 

日常的に身の危険を感じるほどの嫌がらせを受けるのは完全に犯罪被害に遭っている事と同じなのだが、政治的な事を発言し、タブーに言及するのは、カルト化した社会では命取りになってしまう。

 

少し前まではお酒を飲めない、付き合いの悪い会社員は仕事ができない奴と言われて、セクハラをかわせずに悩む女性は弱いとされてきたが、そもそも悪乗りしたり下ネタを連発して人を揶揄う集団に馴染めないと、社会性がないと見放されるのはおかしい事ではないのだろうか。

 

暴力と性犯罪は分けて考えられがちだが、人を軽んじて自分が優越感に浸りたいという欲求に支配されているうちに加害の意識がなくなっていく構造は、どの社会にも共通して当てはまる問題ではないのか。

 

他人が言う事を気にしていたら何もできない訳だから敢えて政治的な事を積極的に発言する人がいるのだが、度が過ぎた嫌がらせや暴力の加害者にも、彼らなりの正義感があるのである。

 

SNSには他愛もない、料理や飲み物やペットや花の写真しか載せられない。むしろ、流行りの飲み物を買ってその写真を投稿する事が社会性として評価され、人が不安になる問題についてはニュースに書いてある内容しか言及しない事が優しさと評価される時代となったのだ。

 

できる事が少なくなり、発言できる事も限られてきたという事実は、人の心の奥底に影響しているのだろう。人々はイライラし、先の見えない状況に対して意見をコロコロ変える。

 

マスクは暑くなってきたらつけていられないと言ってみたり、マスクをつけずに歩いている人を見かけると非常識だと怒る。

 

自由の死には子供が一番敏感だと思うが、不自由の死は時として自由への恐れと不信感を産む。

 

集団の馴れ合いに馴染めない人間には、右寄りだろうが左寄りだろうが関係なく、人間の怖さだけが大きく見えてしまう。

 

理不尽な生をこの世に受けて、理不尽な人生を受け入れようと奮闘しているのは誰でも同じかもしれないが、問題は深刻に考えずに気楽に生きたらいいよという意見がいつもなかなか理解できない。

 

じゃあ、酷い嫌がらせを受けて困っている人も無視して、自分だけ楽しく飲み物を買って、オシャレなマスクをして、美味しい食べ物を食べていれば、それだけで良いという事になるのだろうか。

 

優しさの価値や意味まで変貌していく社会の中で、自分を変えさせられないように生きるのは困難がつきまとう。

 

だからこそ、これからを生きる私達は、自分の感覚に対して正直な目線を持ち続けていかなくてはならないと思っている。