kyoukokukenbunshi’s diary

狂国見聞史 生きづらい世の中に対して感じたことを書きます

孤高の惨めさ

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駅前にある100円ショップで落書き帳を買った。厚紙のスケッチブックは嵩張るし、高いので、80枚紙が入っている子供用の落書き帳はコストパフォーマンスが良いと思ったのだ。

 


見ると、私が幼稚園児や小学生だった時に流行っていたキャラクターのグッズも100円ショップの棚に並んでいるので、ふと私の世代は100円ショップで主に買い物をするのだろうかと思った。安い品物を作るために、酷い労働環境で奴隷のように働かされている人々がいるはずなので、100円ショップで物を買うのが良いとも思えないが、倹約しないと野菜も薬も買えないし、保険も払えないので、こちらも致し方なく100円ショップを使う。

 


私の前に並んでいた高校生の女の子が、レジから離れたと思ったら、追加で買いたい物を持ってまたレジに戻ってきた。お菓子や文房具など、かなりの点数を買っていてびっくりした。

 


人身事故が起きたらしく、電車が上下線とも止まり、帰れない高校生達で駅前の広場が溢れている。私達が高くて買うのを諦めたパイナップルを持って、駅前のベンチに座っている高校生の男の子などもいて、今の高校生はお金持ちだなと思ってしまった。

 


だんだん格差が広がっていくと、中学校を出たら働くしかない家庭も増えていくだろうし、そうなると労働環境が悪くて給料も低い仕事しかできない。

 


私も中学校しか出ていないから、就職しようにもどこもまともに受け入れてはくれないのはいつも悩みの種である。それでも、恵まれた立場にいると自分でも思う。

 

 

 

本人が努力しないから負け組の人生を送らなくてはいけないのは当たり前だという事になっているが、家にお金がないために順風満帆な学生生活を送れない子はどんな思いで生きているのだろうか。

 


大学を出たからといって、生活できる額を稼げる訳でもない世の中になってきて、一体今までの努力は何なのだろうかと無力感に襲われて、鬱病になったり引きこもりになる若い人も増えている。

 


今日の人身事故も、誰かにっちもさっちもいかなくなった人が、人生に絶望して電車に飛び込んでしまったのではないだろうかとも考えた。

 


最近、ゆっくりだが、本を少し読めるようになってきたので、シモーヌ・ヴェイユの「重力と恩寵」を読み始めた。まだ全て読み終えていないが、哲学者でありながら女工として生涯厳しい労働に身をやつし、その仕事が原因で体調を崩して亡くなったヴェイユが、人知れず書いていたノートだという。

 


ヴェイユが今の時代に生きていて、ブログやSNSで発信して、他者と繋がっていたら、もしかしたらこのような発想には至らなかったかもしれないと思った。

 


現代では、神への信心深さと愛を貫くヴェイユの感性は、時代遅れに見えるかもしれないが、信仰を持たない私でも、ヴェイユの言う神の不在が神の存在を産み出すという話に考えさせられる。

 


神の不在があるからこそ、神の存在が確たるものとなる背景には、人間は社会の定義する幸せの条件や不幸の条件と、自らが感じる幸不幸は必ずしも一致しない事を心の奥深くで痛感している事実があると思う。

 


恵まれた立場にいるように見える人の心の闇や虚しさは本人にも説明できないのかもしれないし、苦しい労働を強いられて絶望している人の悲しみもまた、同じである。

 


自己啓発の本やセミナーが巷に溢れ、婚活すれば幸せになれる、子供がいれば幸せになれる、痩せれば幸せになれる、稼げるようになれば幸せになれる…と、「幸せを手に入れるためのノウハウ」をテーマに色々な商品が溢れているが、それだって言われた通りにしたら救われる訳ではない。

 


だが、存在しないものにはお金は払いたくないし、信心深さよりは形あるものの方がみんな欲しい。

 


私は無宗教なのでこんな事を言うのは変だが、形なき自分より大きな力を感じ取り、それを意味があるものとして畏敬の念を抱くというのは、生きる幸不幸の基準よりも普遍的な価値を持っているように思えもする。だが、それは拝金主義の社会では流行らない事は確かである。

 


欲しいものが買えなかったり、望んだ地域に住めなかったり、大きな家で豊かな暮らしをできないからといってそれを恨む人生は、経済の成長が理想とする幸せの形を手にできないから悔やんでいるという事とイコールになるのかもしれない。

 


徹底的に全てをもぎ取られて真空に陥らなければ恩寵を手にできないのではと問うヴェイユの精神は、ここでも社会の幸せの基準に抗っていたようにも思える。

 


私はここには居ない、消えたいと願う気持ちと、生きてここにいる現実の残酷さ。

 


豊かさとは何なのか、落書き帳を手に帰りながら考えていた。

 


花水木の花が、これでもかと誇るように咲いていた。