kyoukokukenbunshi’s diary

狂国見聞史 生きづらい世の中に対して感じたことを書きます

孤独と愛の間に

一人でも自分が嫌だと思う事は反対できる人間を育てる事が、ドイツの教育の目指すところだと聞いた事がある。

 

実際にはドイツがどうなっているかわからないが、世界中で合理性を目指す「技術」と、それに対する「盲信」があり、人々は人間性を維持するために戦っているように思う。

 

だが実際、私たちは何と戦っているのかはっきりしない。一部の富裕層が世界を牛耳っている事に対する憤りだとか、企業がお金のために人々の良心を抜き取る事だとか、マスコミが真実を報道しない事だとか、色々な「敵」がいるように見えるのだが、実際のところ私たちが感じられる理不尽さというものは、具合が悪そうなのに誰も助けようとしない様子であったり、自分が食べるものを買えないという切実な苦しみなのだ。

 

漠然とした大きな敵に立ち向かうのはさながら風車に切り掛かるドン・キホーテのようだが、日常の中で繰り広げられる理不尽な悲しみに、私たちは無視と無関心でもって対峙している。

 

全ての人を助ける余裕がなかったり、社会的な制裁が怖くて何も発言できないという事はコロナ禍の前からずっとあったのだろうが、理不尽さに憤りを感じるほど孤独になっていくものだ。

 

孤独と愛の間にあるものは何だろうか。

 

私たちが愛と信じているものは、本当は虚構なのではないだろうか。

 

他愛もない食べ物の話や、可愛い動物の話、家族の話をしている間だけ、周りの人達は仲良くしてくれるが、深刻な社会問題の話になるとすっと人は離れていく。

 

難しい話には関わるエネルギーや余裕がないというのが本音かもしれないが、孤独になっても訴え続ける勇気は、意味のない事だというなら、今まで曲がりなりにも「戦後」を生きて「憲法」に守られてきた私たちの生活は、誰が築いてくれたのだろうと思う。

 

私は形骸的な論理を繰り返すだけの平和論であっても、人が笑顔でいられたならそれは意味のある事だったのだと考える。

 

孤立していく人々が生きる世界が、数年前まではもっと自由で暖かい雰囲気に包まれていた事を、誰もが懐かしんでいるだろう。

 

私たちがこれから生きていく時に、孤独と愛の間をより強く意識していくと思う。

 

助ける事が罪なのか、孤独になる事が罪なのか。

 

ただ生きるだけでこんなに苦しいという事実が、少しでも報われる日が来るのだろうか。

 

少しでも多くの人に笑顔が戻って欲しいと願う気持ちが、世の中を分断していくのを観るたびに、人間という考える生き物の難しさを思い知るものだ。