kyoukokukenbunshi’s diary

狂国見聞史 生きづらい世の中に対して感じたことを書きます

Wrestling with Shadows

父は何年か前に、子供じみた発想で、朝起きるときに手を使わないで起きられるか試してみようとして股関節を痛めてしまった。変形性股関節炎と診断され、よく脚が痛いと言っては病院に行っている。

痛み止めを飲んで東京に出張したりしていた時期もあったが、ようやく年金をもらえる年齢になったので、念願叶って嫌だった仕事を4月から辞められるようになる。

躁鬱気質の父は、鬱病が原因で仕事において成功を収められなかったのだけれど、職場で周りからバカにされるのがよほど辛かったらしく、明るくなってきている。

私も時々派遣の仕事などをしているが、主な収入源は障がい年金のみなので、両親が年金生活を始めたらもっと生活を切り詰めなくてはならなくなるし、私自身も身の振り方や生活を変えなくてはならないのだが、最近の母は話し相手がいなくなると困るのか、私に精神的に頼るようになってきている。

昨日はアートフェア東京というイベントに両親と共に行ってきたのだが、久々に東京に行った父はなんだか楽しそうにしていた。

年金生活になったらなかなかこうやって家族で外出する事もできなくなるなと私に話しながら、気分が乗ってしまったのか今日は母が買い物に出かけている間に一人で車を走らせてきてしまった。

貧乏生活になると言いながら外車を乗り回して「ちょっと外出してきた」などと言うのだから、大した基準である。

私はと言えば、派遣会社の情報を調べて、障がい者雇用の枠の仕事にエントリーしようとしたり、フリージャーナリストの人の手伝いのアルバイトに応募してみたりしていたのだが、派遣会社の方は住んでいる県に対応できる社員がいないという理不尽な理由で駄目で、ジャーナリストのアルバイトの方も学生限定ということで駄目で、さらに病院に行って診察を受けたらまだ回復していないということで無理はしない方が良いと言われたので、全部始めからやり直しだ。

それでも休みたいだけ休んで、やりたい事があればやれて、という恵まれた環境にいるのだから、少しは勉強になる事をしようと思って、韓国に住んでいる友達にもらった本を読むことにした。

全部英文なので、わからない、読めないながらざっと文章を目で追って、気になる単語や表現をネットで検索して調べながら、その「Wrestling with Shadows」という小説風に書いた実話を読み進めていくと、一人の人の置かれた過酷な状況に周りの人々が関心を示さないという事の恐ろしさがひしひしと伝わってくる。

昔、アメリカとアジアの国々を大きな共同体にしようと計画を進めていた友達は、アメリカ政府から目をつけられ、生活を監視されて、生活に関わる事で嫌がらせをされ続け、(車が壊れる、ATMが使えない、大事にしていた物が自宅から消える、病院に無理やり入院させられて軟禁されるなど)結果アメリカ国内で仕事を続ける事が難しくなり、韓国の領域である韓国大使館でようやく働ける事になる。そこから韓国で職を得て、家族で韓国に移住して今に至る。

まだ半分も読めていないし、聴いてきた話の方が私が理解している事のメインなので、どこまで文章が読めているんですか、というレベルの解説なのですが…

英語は中学一年生までしか習ってないし、(病気で中学2年からは学校に行けず)フランスに行ってから英会話は少し覚えたものの独学なので、ろくすっぽ話せない&書けない、読めないレベルでこの本を読もうとしているのは無謀な挑戦かもしれませんが、重要な文献って多くが日本語に訳されていないものなんですよね。逆に、日本語で書かれた良い本も、英語に訳されてないものが沢山ある。

ちょっと話が脱線しましたが、要は何か平和の為に仕事を成し遂げようとすると、国の諜報機関や過激な思想を持った者に命まで狙われるというのは日本でもアメリカでも大抵どこの国でも変わらない、そこの真実を知って闘おうとする人が増えない限り、地獄に閉じ込められたような状況は変わらないという事を言おうとしています。

最近、その友人がまたアメリカで政治的な活動をするかもしれないという事で、私は老婆心からお節介を焼いてちょっと気分を害されてしまったみたいなのですが、私としては彼の書いた本に書いてある以上の事が起きたら大変だろうなと心配をしていました。

彼の身の回りの人達の大勢が、彼の過去の状況を知りながら知らん顔をしていたというのですが、心配はしなかったのでしょうか。

無関心とか無感情ということで片付けられる話でもないと思ったのですが、とても不思議な事です。

日本では集団ストーキングの被害を「アグサス」と呼んで、ネットで被害の詳細について報告している人がいる。その人も統合失調症の被害妄想だと言われながら頑張って真実の報告をしているけれど、なかなか社会に問題として認識してもらえていない。

最近では日本では活動家や政治家への嫌がらせ被害が明るみにされながら、おおっぴらに被害者を攻撃するエセ右翼も増えてきているが、これも社会が直面している病の一つだろう。

私は、実際にそういう被害を受けた事はないのかもしれないけれど、統合失調症の症状では周りの見知らぬ人からも悪口を言われたりしていると感じたり、酷くなるとある組織に追われていて自分は殺されようとしていると思い込んでパニックになるまで被害妄想が出てくるので、実際に嫌がらせや脅迫の被害を受けている人の恐怖というものはリアルに感じられる。

自分が知っている恐怖が親しい人の身に実際に起こるというのはすごく心配になるので、お節介も焼いてしまうのだが、逆に誰もが恐怖や痛みに関して鈍感だと、真実というものは社会的信用を失ってしまう。そこが怖い。

人の言動には悪意があってやった訳ではなくても罪深い事があって、知った以上は動かなくてはいけない事もあると思う。

でも、子供が駅のホームでふざけて走り回っていても周りの大人が誰も注意できなかったり、目の見えない人の白杖に脚を引っ掛けて転んだ人が腹いせに目の見えない人を蹴ってそれがネット上で賞賛されたりする日本の社会を観ていても、闇は自分のすぐ近くまで迫ってきているんだなと思う人もいれば思わない人もいるんだろうし、共感が得られたから何かが変わるとは限らないという事も痛感させられる。

そんな私が「Wrestling with Shadows」と共に読んでみたいと思っている本が、「反共感論」という本である。

悪い方向に共感が広がればそれが独裁国家を産んだり社会を悪い方向にも導くという危険性を問うた本で、正に今の世の中に蔓延る無関心、無感動は悪い方向に働く共感であろう。

自分の身の危険を顧みずに果敢に挑戦を続ける友人は、本当に勇気のある人だと思う。その活動を阻むような事を言ってしまった私は意気地なしであるかもしれないが、彼の身を案じて彼の置かれた状況に憤慨する人はもっといて良いと思うし、それが無いだけに世の中の問題が解決されないまま多くの勇気ある人達が虐げられている現実を、私達はまた「無関心」で受け流してしまうのだろうか。

人間性の喪失という言葉は正にそれだと思うし、友人の本の題名が「影との格闘」である事は、そのまま社会の闇を表している。

もしかしたら、世界中どこの国も同じような弾圧を広めていき、ごく一部の富裕層や権力者以外は死の恐怖と隣り合わせになる独裁国家になっていくのかもしれないが、知りながら何もしないというのは完璧な放蕩と堕落だと私は思う。

見えている人にはもう何十年も前からこの問題は見えているはずだが、当事者になればなるほど語る事が難しくなっていくのも、社会の無関心が原因なのだろう。

いつのまにか真実は茶の間をひととき賑わす為の、酒の肴のような扱いにされつつある。

本はスマートフォンの普及に伴って読まれなくなったし、今は小難しい事を考えて発言する人は敬遠されるのかもしれないが、良くも悪くも痛みを知ると人は変わらざるを得なくなる。その痛みすら感じなくなるように、私達の社会は麻酔薬を打たれているように思う。