kyoukokukenbunshi’s diary

狂国見聞史 生きづらい世の中に対して感じたことを書きます

愚直な誠意

世の中には愚直なまでに誠実な人がたまにいるが、誠意って元々その人が持っているというよりは、その人の若い頃の失敗から養われるのかもしれないと思うことがある。

知り合いに、誠実なカメラマンの男性がいて、私の若い頃からよくお世話になっていて、福島の原発が爆発した時も彼からの助言で初期被曝を避けられたし、政治がメタメタの今もその人とはよく話が合う。

しかし、その彼も若い頃は才能が評価されていて将来有望だっただけに、周りの人に対して「こんなこともわからないのかよ!」と叱責してしまうような性格だったと人から聴いて、驚いた。

しかしけれども、私も20代前半の頃は強がりと小心の為に、彼と似たような態度を人に対して取っていたような恥ずかしい過去もあり、人って角が取れた時から自分の人間性について自信が持てるようになるのだなと思う。

野心があればまた別の発想をするのだろうが、愚直なまでに誠意を表す人は、計算や建前なんて幸せには関係ないんだ、と思い至る経緯があってそうするきっかけが何かしらあるのだろう。

けれども今の日本でよく売れる本やら、ネットのよく読まれる記事やらを観ていると、愚直さは損としか思っていない人が、感覚が麻痺して建前の世界にしか生きられない現代人をカモにして情報を売っているような、そんな感じがする。

もちろん、変だと思う事に関しては変だとハッキリ言う人は現代にもいるけれど、価値観が商品化されて、誠意までも世渡りの道具として見られるようになって当たり前の環境になったような、色々な意味での物象化が極端に進んでしまったのが今の社会なのだろう。

私は、周りからどういう人に見られているのかはよくわからないけれど、愚直でいたいかな。。

まあ、それで「損をしている」としても、昔やってしまったみたいに、計算や建前で人に接する態度を変えるような人間には戻りたくない。

ある意味であの頃は無知で純粋だったと思う反面、若いという事は無垢で無邪気だとは全く思えない自分が今、ここにいる。

実は一番、傲慢でつまらない性格だったのは、小学生とか中学生くらいの時分だったと思う。

人生、思うようにいかないよねって諦めが出てきたあたりから、なんとなく性格も丸くなったのかな。

激しい面を知っている人から怒られそうな言い方だけど。^ ^: