kyoukokukenbunshi’s diary

狂国見聞史 生きづらい世の中に対して感じたことを書きます

生きる意味

我々が人生に対して期待していたことは重要ではなく、人生が我々に期待した事が重要である。

自分の人生の意味がなにかをいつも悩むことを放っておいて、我々はいつも人生から問われている存在だと考えた方が良い。

正解は瞑想と対話ではなくて、倫理的な実践と行為にある。

その人なりの人生の挑戦にたいして、それぞれが果たせることに最善を尽くすべきである。

ヴィクトール・フランクル「夜と霧」

“It did not really matter what we expected from life, but rather what life expected from us. We needed to stop asking about the meaning of life, and instead to think of ourselves as those who were being questioned by life – daily and hourly. Our answer must consist, not in talk and meditation, but in right action and in right conduct. Life ultimately means taking the responsibility to find the right answer to its problems and to fulfill the tasks which it constantly sets for each individual.”

Viktor Frankl, Man’s Search for Meaning

「夜と霧」の本が手元にないので、ちょっと別の訳文になりますが、ヴィクトール・フランクルの書いていたこの一文について私なりの考えを書きたいと思います。

フランクルが夜と霧を書くきっかけになったナチスの収容所では、時間の流れの遅さと次々と仲間が死んでいく、想像を絶する地獄が確かにあったと思います。

似たような環境と言ったら語弊がありますが、現代の日本の精神病院などでも人権侵害が平然と行われています。

私は持病が悪くなった時には精神病院の隔離病棟に入らなくてはならないのですが、入院中の苦しさは筆舌し難いほどのものがあります。

あらゆる事象に対して過敏に反応し過ぎ、酷い妄想に取り憑かれて、隔離病棟に入院しないと生命の危険があるほど憔悴するため、入院せざるを得ないのですが、こういう症状が出ている時には死が身近に感じられます。

ある陰謀に巻き込まれて闇の組織に命を狙われているとか、本気で妄想を信じています。

よく、鬱病の人が死にたいと言ったり、自殺未遂をしたり、失踪して家族に探させようとしたりしますが、鬱病の人にとっての自殺願望は好きなものが食べたいと思う感覚に近いほどカジュアルに身近に感じられるものだといいます。

けれども私の場合、鬱っぽくなると言うよりは妄想に取り憑かれて動き過ぎて死に近くなり、身体的にもボロボロになるのですが、精神は不思議と生命にしがみついて生き延びようとする方向に向かいます。

病気による妄想ではなく、実際に迫害され、殺されようとしている人の精神は、恐怖に晒されていながらも強くあると私は思います。

「我々が人生に対して期待した事は重要ではない」とフランクルは書いています。平和で健康な生活を送っている人間は今の瞬間よりも未来の方を観ていますが、明日はこうしたい、来週はどこそこへ行きたい、来月は何をしたい、来年にはこういう成果を出したい、何歳までに夢を叶えたい、と思う気持ちは死にものぐるいでしがみついていない、平穏な今から産まれるものです。

収容所に閉じ込められていたユダヤ人達は、戦争が終わって収容所から出られたら何を食べたいとか家族に会いたいとか、絶望に光を灯す希望を持ちながらも、閉じ込められたままであろう今日や明日、来週といった近い未来のことは辛くて考えたくもなかったと思います。死の恐怖が間近にあり、数時間、数分後に死んでもおかしくない状況では、まともに数が数えられなくなったり、突飛な考えでもってなんとかその場を凌ごうとしたりします。

「人生が我々に期待した事が重要である」と書いたフランクルの心は、迫害を受けて地獄を見た自分の人生を恨み節のみで終わらない強さで満ちています。

収容所では、同胞を裏切って誰よりも酷い暴力を振るい、同じ収容者でありながら丸々と太って自分だけは生き延びようとしていたカポーがいました。

死にゆく仲間を助けようと手を差し伸べた収容者は皆、帰らぬ人となったとフランクルは記していますが、みんな自分だけが助かりたいと思っていた中で、人間としての暖かさを忘れないで善行を実践した人々は、フランクルを含む限られた生き残りの収容者の心に永遠に記憶される存在となり、この世を去りました。

一昔前に若い人の中で「自分探し」という言葉が流行ったことがあり、自分のアイデンティティがわからず、旅に出たりボランティア活動をしたりする若者が大勢いました。

その言葉をセリフに使った映画「100万円と苦虫女」の中で、100万円貯金できたら別の街へ引っ越すことを繰り返す主人公に、何故そんな事をするのか、自分探しみたいなものかと男性が問う場面があります。「自分から逃げているんです。だって、自分は探さなくても今ここにいるじゃないですか。」と負い目のある傷ついた主人公は相手に返します。

自分の存在は自分には見えているようでいて、実はよく見えないものです。

前の投稿に、人間が人間らしくある為には、大きな勇気と犠牲が必要なのだと痛感したと私は書きましたが、「人生から常に存在を問われている」というのは、そこの事を指し示しているように思います。

人の作り出す社会には、常に矛盾と搾取があり、そこに目を向けた時に憤り、虐げられている存在を救おうと動くか動かないかの瀬戸際にしか、自分という存在の輪郭は自身の目には見えてこないものだと思います。


目を覚まして自分が「平和で快適だと信じていた世界」が、実は「先の見えない地獄」だったと気づくきっかけは、人それぞれ違う事でしょう。

死ぬまで世の中は安泰で便利だと信じている人も多いように感じます。

けれども、「正解は瞑想と対話ではなくて、論理的な行動と実践にある」というフランクルの言葉は、暗に人間の社会には常に危機的な間違いから来る地獄がどこかに存在し、平和で便利に見える世の中は搾取から出来た権力構造の上部にしか存在しない、それこそ儚い霧のようなものであると私たちに警告しているように受け取れます。

今のまま便利さのみを追求する、破壊のみを推奨する経済の構造には、既に計り知れない数の悲しみと絶望がつきまとっています。

社会の搾取構造の中で、歯車の一部として「便利さ」や「お金」のみを求めるしかないと考えさせられている私たちには、今一度、自分について考える必要があると思います。

人生は思うようにいかない事を自分なりに受け入れて、「思うようにいかなかった事」が「人生から存在を問われた」と同意義に考えられ、それが恨み節になったりせずに誠意ある行動と実践に繋がった時に初めて、人は生きる意味についてほんの少しだけ人生から教えてもらえるものだと思います。

一瞬で全てが手に取るようにわかるのではなく、長い荒れた道に僅かな道しるべを見つけて、また迷うように。

それでも長い時間が経ち、自分が歩いた道のりを振り返って見た時に、自分が苦しんで進んだ場所が遙か彼方に見えて、そこが意外と美しく見えるのかもしれません。

凄惨な収容所を生き延びたフランクルの言葉は、繰り返す人々の悲しい状況に、少しだけれども重要で暖かい道しるべとなって輝いているように思えます。

「夜と霧」が人類史上に残る名著として多くの人に読み継がれる理由は、そこにあると私は感じます。