kyoukokukenbunshi’s diary

狂国見聞史 生きづらい世の中に対して感じたことを書きます

熱狂

サッカーに熱狂する世の中と、満州陥落に湧いてお祭り騒ぎをした過去の日本人と、あんまり変わらないのかもしれないなと思う私は、ひねた発想を持っているのだろうか。

先日、初対面の人と数人で話をした事があったのだけど、そのうち一人は私と同じ発想で今の世の中は危ない、戦争まっしぐらだと思って活動している人だったが、もう一人は全くそのような考えを持っていない人だったので、私達の話す内容にびっくりしていた。

どちらかと言うと社会に危機感を抱いていない人の方が圧倒的に多いんだろうな、と思うが、アメリカや日本の動向を観ていて戦争になりそうだと察している人が、「なるようにしかならないし、どうせこの世の中長続きしないよ」と投げやりな見解で何もしないのには正直、困ってしまう。

世の中は限りなくファシズムに近づいていると思うし、私のように統合失調症があって、幻覚や妄想の症状の中で弾圧の疑似体験をする者にとっては、病気の症状と現実で起きている危機の線引きをする事が人生の最重要課題になってきたりすると思う。

人々が熱狂している期間と言うものは、物事が非常に早く進んでしまうから、熱狂が覚めてから状況が変わっていたとしても、手の施しようがない。

そう言う事の繰り返しの中で忘れ去られたり誤解されたまま社会から顧みられなかった人というものは無数に分断された環境の中でもがいていたのだろうが、私は特にスポーツの世界のナショナリズムと言うものが、苦手だ。

楽しんでいるのだと言われればそうなのだろうが、国を意識して闘うような中で、なんだか言いたい事を言い切れない歯痒さを感じながら黙ってしまう自分がいる。

実は私が統合失調症の症状の中で経験した被害妄想の中には、単なる症状とは言い切れないような不思議な体験もあるのだけれど、それを口にするには勇気がいるし、自分自身を恥じたり、疑うような事が多くて、やはりそれについても私は口を噤んでしまう。

この世で人間に許された最も自由な表現が詩だと言うが、それを表現するにはやはり詩しか方法がないのか、と思うほど突飛で危険な内容のように思えてしまう。

別の言い方をしてこれを読む人に「謎かけ」めいた表現をするなら、自分の信じてきた概念が崩れた時に、それぞれ私達はどうやって崩れた概念の壁を踏み越えていくでしょう?と言う事。

信じよう、働こうと足を踏み出そうにも、目にするもの、出逢う人全てが自分を攻撃してくるように思えていたら、人間、何でもしてしまいます。

そう言う危険な世界にもう私達が放り込まれて生きているのだ、と私が言ってしまったら、誤解もされるだろうし生きづらくなるだろう。

そう、私は病気なのだけれど、今まで人々が信じてきた正義や概念が崩れた今の世の中では、また別の熱狂と病があると私は思う。