kyoukokukenbunshi’s diary

狂国見聞史 生きづらい世の中に対して感じたことを書きます

捨身の生き方、悲しみを知る価値


産まれてきたくもないのに産まれてきて、友達にもなりたくない人たちを友達と呼んで、辛くても楽しいふりをしなくてはならない幼児期はあまりいい思い出がない。それでも、孤独に虫を観察する私と遊びたがってくれる良い友達はいた。ある意味で子供達は個性と個性が共鳴できるという強みを持った特異な存在なのだ。

 


子供は生きるために、それが嘘だとわかっていても大人の演出する「楽しい世界」を楽しもうと努力するが、大人になったからといって自分の本心に対して正直な感覚を持てるわけではなく、むしろ嘘を許容する能力と自らを欺く事が社会性として評価される事になるから、みんな必死なのだという事が、最近までよくわかっていなかった。

 


純粋さは真の信頼を得る一番良い手段なのだが、欲を優先させる事の方が人にとって容易い。思考するよりも感覚に従うのが人の常だが、自分の行動を反省する余裕はその瞬間にはなかなかない。

 


歳を取るという事は無に近づき、真の純粋さを知るために必要なチャンスを何回も経験するよいきっかけなのだが、人が計算しながら生きる事は、その人が「捨身になれない悲しみ」を必ずしも理解できる訳ではないのをよく表している。

 


悲しみを理解する事は人生において最大の財産なのだが、悲しみを避ける事は社会にとって成功の証として奨励されている。

 


旅をしていた時に、ゲストハウスで知り合った旅人たちと話すのが好きだった。

 


彼らは宿代が捻出できずに困っているのに私にピザをわけてくれたりする、不思議な親切心を持ち合わせていた。

 


助け合う事が孤独であり、損のように思えても、他者に分け与えて今を精一杯生きる彼らの精神が、私の生き方を大きく変えた。

 


孤独であり、悲しみを敢えて知ろうとする心が行き着く先は、さらなる悲しみの泉かもしれないが、先行きの見えない時代に人生の計算を捨てるという生き方が、何人の魂を救うだろうかと、時々考えてしまうのだ。