kyoukokukenbunshi’s diary

狂国見聞史 生きづらい世の中に対して感じたことを書きます

天気

f:id:yonyonchang:20210509183902j:image

 

 

 

気候変動が問題視されるようになってきたが、実際に豪雨災害が毎年増え、一日のなかで天気はころころ変わる。

 

さっきまでかんかん照りの夏のような天気だったと思えば、あっという間に曇って雨が降る。

 

洗濯物を干したまま外出するのが怖いのだが、人間様の人間様による人間様のための文化によって、ここまで環境が変わってしまったことを、気にする人ほど周りから面倒くさがられる。

 

それでもエコバッグを持ち歩く人は増え、プラスチックのストローやカップも減ってきているが、結構チタン製の金属ストローが役に立つ。

 

暑いときにアイスコーヒーを飲むのが好きなのだが、氷を入れるとストローなしでは飲みにくいので、気にしていないときはコンビニで貰ったプラスチックストローをよく使っていた。

 

プラスチックのストローの方が飲み心地がよくて味も良く感じられるような気がしたこともあったが、今はいつも金属ストローを使っている。

 

水筒に飲み物を入れて持ち歩くには小さめのボトルが向いているので、小さなバッグに財布や携帯やエコバッグ、手を拭くためのてぬぐいなどと一緒に水筒を入れる。

 

こうして少しは環境に配慮したライフスタイルを身につけようと努力はしているのだが、気温はぐんぐん上がり、天気はくるくる変わる。

 

大量に消費して利益を出す経済の仕組みが、歪んだ形で人の生活を支えてきたわけだが、豊かさの価値を問うてみると、人間は豊かな生活をしているだけでは幸せになれないということも少しずつ理解されていく必要があるのだなと思う。

 

もちろん私も着る物や食べるものにある程度の質を求めるし、物も欲しがる。

 

狭い部屋に自分の物を収納するためにある程度好きな物を売って処分したが、昔はかなり物をため込んで生活していた。

 

物を作るのも好きで、服やアクセサリーなどをよく作っていたので、独り暮らししていたときの部屋はミシンや工具であふれていた。

 

手作業で作るという行為が人間の精神を安定させたり、脳の働きをよくしたりということもあるから、病院や幼稚園でも折り紙をさせたりするのだろうが、作っては捨て、作っては捨てというのもなんだか罪だなと思い、古布やリサイクル品の服を買ってきてはリメイクしたりということもしてきた気がする。

 

今では絵を描く以外はほとんど制作もしなくなったが、気候変動にとっては作るという行為もあんまり良くないかなと思ってしまうきらいがある。

 

けれどもパソコンやスマートフォンばかりに頼って生きるのはそれはそれで脳に影響があるらしい。理論的にものを考えることができなくなり、常に情報を求めてネット中毒状態になると、受け身的な発想しかできなくなる。

 

どんなに色々な問題が身の回りにあっても、解決するために行動しようとは考えられなくなったり、環境や自然の異変に関して鈍感になることこそが人間らしさで賢さだと無意識に勘違いするようにもなる。

 

祖母から昔貰った誕生日のカードに、こんなことが書いてあった。

 

祖母は東北に住んでいたので毎年雪を経験していたが、毎年降っていた雪も少なくなってきて、降ってもベチャベチャしたぼた雪で、冬が暖かくなるのはうれしいけど地球が変になってしまうのではないかと心配していると書いてあったのだ。

 

今は祖母も亡くなってしまったが、年々暑くなる気候を見ていると、庭で毎日草むしりをして、四季の変化を楽しんでいた祖母の感覚の鋭敏さに驚かされる。

 

便利になっていく社会を豊かさの象徴として信仰するのは自然な発想なのだが、豊かさの価値を問い直す機会も昨今では多く持たれるようになってきている。

 

人が生きていくために適した環境を維持するために、経済の成長を犠牲にしていいのかという意見も多く聞かれるが、人の思考と環境や文化の崩壊が深くつながっているのは言うまでも無い。

 

ただ消費するだけの生活スタイルから、江戸時代のリサイクル文化へと戻るのは簡単ではないかもしれないが、白くもくもくとした夏の雲が春に見られるようになったのは不気味だなと、怖くなってしまう。

 

これから雨の季節になる。台風もやってくる。そういうときに、被害を出さないだけでなく、何が一番必要な対策かをきちんと考えていける社会になってほしい。