kyoukokukenbunshi’s diary

狂国見聞史 生きづらい世の中に対して感じたことを書きます

捨身の生き方、悲しみを知る価値


産まれてきたくもないのに産まれてきて、友達にもなりたくない人たちを友達と呼んで、辛くても楽しいふりをしなくてはならない幼児期はあまりいい思い出がない。それでも、孤独に虫を観察する私と遊びたがってくれる良い友達はいた。ある意味で子供達は個性と個性が共鳴できるという強みを持った特異な存在なのだ。

 


子供は生きるために、それが嘘だとわかっていても大人の演出する「楽しい世界」を楽しもうと努力するが、大人になったからといって自分の本心に対して正直な感覚を持てるわけではなく、むしろ嘘を許容する能力と自らを欺く事が社会性として評価される事になるから、みんな必死なのだという事が、最近までよくわかっていなかった。

 


純粋さは真の信頼を得る一番良い手段なのだが、欲を優先させる事の方が人にとって容易い。思考するよりも感覚に従うのが人の常だが、自分の行動を反省する余裕はその瞬間にはなかなかない。

 


歳を取るという事は無に近づき、真の純粋さを知るために必要なチャンスを何回も経験するよいきっかけなのだが、人が計算しながら生きる事は、その人が「捨身になれない悲しみ」を必ずしも理解できる訳ではないのをよく表している。

 


悲しみを理解する事は人生において最大の財産なのだが、悲しみを避ける事は社会にとって成功の証として奨励されている。

 


旅をしていた時に、ゲストハウスで知り合った旅人たちと話すのが好きだった。

 


彼らは宿代が捻出できずに困っているのに私にピザをわけてくれたりする、不思議な親切心を持ち合わせていた。

 


助け合う事が孤独であり、損のように思えても、他者に分け与えて今を精一杯生きる彼らの精神が、私の生き方を大きく変えた。

 


孤独であり、悲しみを敢えて知ろうとする心が行き着く先は、さらなる悲しみの泉かもしれないが、先行きの見えない時代に人生の計算を捨てるという生き方が、何人の魂を救うだろうかと、時々考えてしまうのだ。

不自由を望む願望の作り方

 

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佳子さん 「マスクというのは自分のために使うものではなくて、相手にたいする思いやりですよ」

 


純子さん 「本当に申し訳ない話ですが、私をあなたの精神病に巻き込まないで」

 

 

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娘  「お父さん。なんで人々が自分の自由を「安全のため」放棄するの?」

 

お父さん 「ヘーゲルの変証法にはこうある、まず問題を作り上げて大衆がそれに反応する時、仮に十分な恐怖と集団狂気が誘導できたら、大衆が自分たちの自由を奪う解決策を喜んで受け入れるんだよ」

 

 

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コロナ禍の前から、日本や韓国、中国では冬場に多くの人がマスクをするのが当たり前の光景だったが、大気汚染やインフルエンザの感染を防ぐために神経質な人がマスクをかけている印象があった。

 

原発事故の後に、子供を外で遊ばせないようにしたり、野菜や水を厳選する人は非難された。

 

農薬や添加物に関しても、菜食主義者に対しても、「気にしすぎだ」という考えの方が根強い。

 

上に載せた二つの漫画は、恐怖が支配する時代においての自由の概念を巧みに表現している。

 

例えば添加物が身体に与える影響を心配して、家族に加工食品を食べさせない人は、周りの人が加工食品を食べる自由を侵害しているともいえるが、実は日本では食品添加物の規制基準が緩くて、発癌性がある添加物でもどんどん使われて、食品が流通しているという事は、知られているようで知られていない。

 

食品の安全性を測り、流通させる際の枠組み作りに注意を払わなければそうなるのだが、あくまでも危険な食品が当たり前のように出回っているのが社会のベースにあるという感覚なのだろう。

 

その場合、家族が本心は食べたいと願っている加工食品を食べさせない人は自由を侵害する悪人という事になるが、食品添加物を許容する大元の基準は問われない。

 

家族の身体の心配をして、あれを食べるな、これを食べるなと言う人の気持ちは、コロナ禍だから友達と会うな、ワクチン接種を受けろ、あるいは受けるなという人の心理と何も変わらないが、脅威というものは権力者にとって、利用してなんぼのものという感覚があるのだろうか。

 

社会には治安や秩序を守るためにルールがあるのは当たり前の話だが、戦争中には戦争に反対する者は処罰されるのが当たり前だった。

 

有事でない時に必ずしも世の幸せの為に社会が作られてきた訳でもなく、集団に意見し、腐敗を暴く者は年齢を問わず排除してきたのは、「平和」な時代も一緒だったのである。

 

本当に常識的な人間であれば、人は皆違う事を前提として物を考え、人と接する事ができるが、それができない人が逆に「常識的な人間」として考えられているのである。

 

エボラ出血熱のウィルスは、日本に持ち込まれていて、オリンピックの際に何かあった時の治療の研究のために役立てるというニュースは小さくしか報道されていない。

 

これだけ災害が多く、ウィルスの管理方法がよく明かされていないにも関わらず、大きく報道されないので問題ない事になっている。これが人々の共有している、重大なウィルスの脅威に対する認識なのだろうか。

 

放射線に対しても、エボラウィルスに対しても、農薬の害に関しても、沖縄の基地問題に関しても、知っていても自分の問題だと認識するに至るまでの過程は、非常に長い道のりである。

 

マスクをつけているかいないか、ワクチンを接種したかしていないか、コロナに感染したかしていないかが何故、これだけスムーズに多くの人々に多大な関心と問題意識を起こさせるかは、不思議な現象である。

 

マスコミはある問題を取り上げて報道する際に何を利益にしているのか、誰が何を発言する事でどんな利益を得ているかは、そこに注目する人しか考えが及ばないし、大衆にとってはどうでも良い事なのかもしれない。

 

コロナに効く特効薬がない事にされていて、ワクチン接種だけ推奨されているのも、なんだかおかしな話なのだが、TwitterFacebookではワクチン接種による被害の報告は削除されてきている。

 

ペルーやインドで成果を上げたとされるイベルメクチンに関しても、勝手に服用した際には害があるという報道が目立ち、コロナ治療薬としての承認も「承認されているのに、されていない」という事になっているのだ。

 

コロナだけを語らざるを得ないのに、自由に発言はできない。社会の枠組みとしてのファシズムは用意されていた訳だが、不自由な状況を自発的に人々が望むようにしてファシズムを根付かせる為には、ほんの少しの力で崖の上の岩を押すだけで良かったというようなものでもある。

 

後出しジャンケンのように「新事実が判明した!」と報道し、子供にも感染が広まっていると言いながらパラリンピックに子供を動員する大人達は、お金儲け中毒なのだと私は思っている。

 

815医療人宣言

韓国の医療者達が2021年8月15日に「815医療人宣言」なるものを発表したらしいです。(金サンス氏が代表)

 

日本語訳とURLをコピーして載せておきます。

 

下記コピー↓(日本語の表現が多少読みづらいかもしれませんが、よく訳されていると思います。)

 

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https://endpandemic.kr/mascov/210815_declaration_Jap.pdf

 

 

815医療人宣言
我々医療人連合は初めて疾病に対抗して患者の世話を行う医師、歯科医師漢方医師、看 護師より構成されております。我々は 1 年6ヶ月間、コロナ 19 のパンデミック事態を、切 ない思いで注目してきました。 我々は防疫対策を樹立及び実行するにあたって、必ず下記の原則を守らないといけないと 思っております。
第一、 国民に害を及ばしてはいけない原則。 最前線の医療人として個人を対象に診療するとしたら、防疫においての診療対象も 国民である。「診療」という共通の使命を果たしているため、ヒポクラテス宣言中で もっとも重要な医学論理であるこの原則は国民にも同じく適用しなければならない。
第二、 公衆保健と保険医療システムはこれを支える経済の力を保障されたときにこそ有効 的であるが、自由が過度に制限されたら崩れるため、防疫を行う際には経済と自由 を損傷するラインを侵犯してはいけない。
第三、 あらゆる防疫対策は、人類が経験して来た様々なパンデミックを通して習得した知 識や、疫学、感染学、免疫学、微生物学などの医学的根拠が必要であり、各専門家 の合意のもとに樹立しなければならない。
しかし、現在の防疫対策は、この三つの原則を違反しております。全国民を対象にするマ スク着用の義務化、大量の PCR 検査、ソーシャルディスタンス、集まり禁止、隔離と監視、 各行政命令、そして沈黙と服従の強制は、世界中かつてないほど強力で非文明的でありま す。これによって国民は新型コロナ 19 パンデミックから受ける被害より、もっと大きい経 済的、精神的、肉体的被害を受けています。
まだ臨床試験を終えず安全性を確保できていない実験的ワクチンの大規模接種と、小児・ 青少年の長期に渡るマスク着用はその被害を計り知れない状況でございます。
又、現在の防疫は診療が必要である発熱及び呼吸器患者の権利を奪ってしまい、自己隔離 者であるとの理由より、また新型コロナ 19PCR 検査結果が確認されていないとの理由より、 応急診療が必要である急性心筋梗塞脳卒中、重傷外傷患者が適切な時期に治療を受けら れなくなっています。

上記を踏まえて、患者を診療する我々医療人は連合を結成し思いを集め、下記の事項を宣 言します。
*すべての学校を元の状態に解除し、教育の正常化、野外活動を活発的に進め、私達の未 来である小児・青少年の体力低下と教育不振を挽回すべきである。
*大量の PCR 選別検査は無数の偽陽性者を生み出すため、莫大の税金と時間の無駄である。 健康な陽性者を「感染者」の扱いで隔離・監視するのは医学的に妥当性がないだけでなく、 憲法より保障されている身体の自由の権利に違反する可能性があるため、中止しなければ ならない。PCR 検査は呼吸器症状がある患者に限って全国の各病院で医師の判断より実施す べきである。
*COVID19 ワクチンは集団施設収容者、療養病院入院患者、基礎疾患のある老人患者などに 限って厳格な基準に適用する選別的接種を行わなければならない。小児・青少年において COVID19 の致命率はインフルエンザの致命率より低く、ワクチン接種が COVID19 の感染より 危険である研究もあるため、安全性が確率するまで接種を留保するか全面撤回すべきであ る。
*COVID19 感染病は、医療伝達体系に基づいて、大多数を占める軽症患者は全国の一次医療 機関より診療を受け、少数の重症患者は上級医療機関で治療を受けるべきである。社会的 距離を置くことや集まり禁止はウイルス感染を遮断する医学的根拠はない。これらの対策 は COVID19 の低い危険性に比べ過度な恐怖を引き起こし、COVID19 パンデミックの終息にメ リットを与えずむしろ害を及ばすため中止しなければならない。
*マスクはウイルス遮断に効果がある医学的研究は不十分であるが、弊害について立証す る研究は十分であるため義務化の正当性はない。従って、着用は完全に個人の意思に任せ なければならない。もし義務化するのであれば、重症患者と彼らを治療する医療人に限る べきである。
我々医療人連合は、根拠に基づく医学を通して国民の健康に責任を持つ専門家集団として、 今回のパンデミック事態を教訓に、今後発生する可能性のある伝染病に対して正しく対策 を取るために全力を尽くします。本宣言は多様な閉鎖政策による国民健康の悪化だけでな く音楽、コンサート、スポーツ、芸術など文化の衰退を食い止め、以前のダイナミックな 韓国文化と経済、そして人間らしい生きる環境を取り戻すために提案するものであります。 国内外医学論文と各国で発表された統計に基づいて、医療専門家の議論をもとに、与野党、 左翼・右翼、理念など全ての政治的要素と陰謀論を排除した、純粋に国民の健康と福祉を

目標として作成されております。
上記宣言はコロナワクチンの安全性を確保するための医療人連合により作成されており、 これに同意して署名します。
2021 年 8 月 15 日
Sign the declraration / View all the signatures https://mascov.org

 

引用終わり

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様々な意見がある世の中ですが、市民はコロナ禍における社会からの圧力や制約にうんざりしている人が多いです。

 

「いつになったら終わるのか」「コロナ禍が去ったら〇〇をしたい」「ワクチンを打ちましたか?」などの言葉を挨拶のように使うようになりましたが、ワクチン接種以外には解決方法がないかのように、世界中で報道されています。

 

そしてワクチン接種が進んだ国は、新たな「変異株」の流行に晒されて、三回目のワクチン接種を強要されている場合も見受けられます。

 

イベルメクチンやアビガンなどの、予防や治療に効果の可能性がある薬は徹底的に排除し、ワクチンでは認めない「副作用」の報道が蔓延します。(ワクチンの場合は副反応という言葉を使っていますが)

 

政治的な意図を抜きにしてこのコロナ禍について語らなくてはならず、ワクチン接種の推進に異論を持ってはいけないという風潮も思想や言論の自由を侵害していますが、権威ある立場からの発信でなければ信用できないという発想は私達にも根付いているのかもしれません。

 

親御さんがコロナワクチンを接種した後に脳梗塞を起こし、救急車で搬送される様子を動画と文章でTwitterに投稿された方のアカウントは、何日も私からはアクセスできません。

 

この韓国の医療者達の宣言は、日本よりも更に強い私権制限やマスク、ワクチンの強要に晒されて苦しむ市民を助けて、見守ってきた方々の心の訴えです。

 

感染症の脅威に対して私権制限と監視で対応すべきと皆が自主的に考えている今だからこそ、彼らの科学的・法的見知と善意から生まれたこの声明をよく読み、考える事が必要なのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

懐かしむ事

私が幼少期を過ごした地域には、その時代は「なんちゃって西洋」の雰囲気が漂う喫茶店があった。今はもうない喫茶店だ。

 

バブルの名残を感じさせる平成初期には、デパートも地方にあったし、300円のくじを引くだけでカセットテープが中に仕込まれた、しゃべる熊のぬいぐるみが当たったりもしたし、サンリオの店の前で遊んでいるだけでお店の人がお菓子の入った布袋を一人に対してひとつくれたりしたものだから、当然喫茶店にも少し高級感があった。

 

茶店に頻繁にいけたわけではなかったが、私と姉はその喫茶店で売っている焼き物の動物の人形が欲しくてたまらなかった。

 

ウサギや鹿、犬や猫などの人形を、何年もかけて少しずつ買って貰って、その中の羊の人形には私が服や小物を作って、姉を遊びに誘う口実にしていた。

 

未だにその羊の人形を取り出して見ることがあるが、子供の手でミニチュアの服にバラの花の刺繍をしていたり、フェルトに洗濯のりをつけてボタンにかぶせて形を作り、ベレー帽にしていたり、暇だけは十分にあった子供時代にはこだわりを見せる余裕もあったものである。

 

それらを見ては過去を懐かしんでいるわけだが、懐かしむ事には何か今に生きる自分自身を慰めるような、勇気づけるような、そんな不思議な要素がある。

 

言ってみれば大概の人は過去の経験を思い返しては過去の自分をうらやましがったり、今はこうなっていて良かったかなと安心したりするのだが、疲れたときにお茶を飲んだりコーヒーを飲んだりするように、時間の概念の中に生きる私たちの「現在の時間」を奪い取ってくれるような、そういうものなのだとも思う。

 

なかなか子供の時に好きだったものが捨てられないタイプなので、壁に昆虫の標本が入った標本箱が未だにあったり、焼き物の人形もクリスマス時期には小さなクリスマスツリーとともに飾られたりするが、それらは物として見たり触れたりしているのではなく、私にとっては時間を見たり触れたりしているのだから、小宇宙でもある。

 

時々、意味不明な文章が書いてある紙切れや、道ばたで拾ったがらくたなどもクローゼットの奥を整理していると出てくるが、自分の歴史や軌跡を見ていると、忘れていることが多いなあと感じる。

 

自分のことを忘れているというのは幸せなことでもあり、寂しいことだが、私が私を生きるためには経験の軌跡を知ることも重要なことである。

 

苦楽をともにした部屋を一時期はひどく嫌ったが、今は快適になったのも、あちこち渡り歩いてみても私は他の人間にはなれず、結局どこで生活しても幸せになれるかなれないかは自分次第だということを学んだからだと思う。

 

コロナ禍でどんなに行ける場所が限られても、例え病院の部屋に隔離されようとも、懐かしむ事が心の中に小宇宙を作ってくれる。近くに思い出の「物」がなくても。

 

人の感覚は苦悩にとらわれ始めると、全神経とすべての時間がそれに集約されてしまい、「人生すべてが苦しい」という感覚に陥ってしまうが、それは今の時間の中には自分の心を客観視できる距離はなく、苦しいと思う心そのものがその人、我が身の最小単位で最大単位になってしまうからだと思う。

 

今経験する時間と心に対する距離は、懐かしむ事ができると、私を支える私となり、今の時間のみに私は縛られなくなる。

 

余裕無く人々が走り回り、攻撃的な言葉が飛び交う今の時代、バブルの名残が感じられ、何でもできるような気になっていた時代、それぞれの時にも深刻な問題はあったのだが、可視化されない問題は封じ込められて忘れられ、可視化すればお金になる問題だけは紙面に取り上げられるようになり、私たちは真実という物も心という物も、どういう本質を持っていたかを忘れてしまっているかのように生きている。

 

けれども唯一、懐かしみ、ふと童心に返るときには、何故か真実についても心についてもそのものを疑いもせず私たちは理解できている。

 

競争を嫌う私は戦士としてはできそこないだが、もっと人の痛みや苦しみを和らげることはできないだろうか、と自問して生きている。

 

大きな事はできなくても、人々がピュアな感覚を取り戻す瞬間を見ると、生きていて良かったかな、と少し思える。

 

だから、無心になって何かを追い求めていた若いときの感覚という物を、もっと社会が大事にしていたら、もう少し救われる人もいるのではないだろうかと考えている。

 

スペイン映画の「ミツバチの囁き」の中に、フランケンシュタインを探す主人公の少女と、脱走兵の交流のシーンがある。人に見つかることを恐れていながらも足を怪我して思うように動けない脱走兵は、彼をフランケンシュタインだと思う少女アナがリンゴをくれた瞬間から、心を開く。

 

アナの記憶の中には、「フランケンシュタインにリンゴをあげた」という単純なものしか残らなくても、食べるものを自力で探せない脱走兵にはどれだけ大きな助けになったかを、私たちは映画を通して知るのである。

 

そういう素朴な親切心が大人の心に残っていたら、もっと世の中は良くなると私は映画を見て思った。

 

幼い私が姉と遊びたい一心で羊の人形に服を作ったのは遊びたいという下心からしたことだが、もっとシンプルに、もっと大胆に、誰かを喜ばせるために(お金にならない)何かを作るという事も、大人の仕事なのではないかと感じる。

 

 

 

 

 

 

夏空

だんだん夏の空になってきて、ふわふわした夏の雲を観るのは毎回楽しいが、雷雨が増えてきたのが心配の種である。

 

雷も小さい頃は面白がっていたが、最近は苦手になった。

 

雷が近くで鳴ると、右往左往してカーテンを閉めて、耳栓までして怖がっている自分が情けない。

 

しかし、昔はこんなに雷雨や豪雨はなかったよなあと思う。

 

年々気候変動によって気温が高くなると、災害が増えるのは分かっていたつもりでも、自分でも気づくのが遅すぎたかもしれないと思う。

 

人間の生活の仕方に問題があるのだが、お菓子を買ってもビニール袋に入っていて、野菜を裸のまま買っても結局レジで薄いビニール袋に入れてくれたりするので、結果として石油の消費量は減っていないような気がする。

 

ビニールやプラスチックの使い捨ては、人間の心の欠乏感や寂しさをそのまま表しているように感じる。

 

野菜が潰れて汁が服や鞄につくのが嫌だからビニール袋を使うとか、手軽に安い飲み物を外で飲みたいからプラスチックカップのドリンクを買うとか、見てくれと便利さが人間の欲求の殆どを占めているのかと感じさせるほど、ビニール袋やプラスチックは馴染み深い消費物になっているのだ。

 

最近、26年使ってきたプラスチック製の引き出しつきの棚があっけなく壊れた。便箋などを沢山入れて、手紙を書くたびにそれを使ってきたのだが、引き出しのプラスチックに沢山のひびが入ってきていて、それが引っ張った瞬間にべりっと割れてしまった。

 

ドイツに引っ越して子供を育てている知人が、最近はなるべく天然繊維で作られた服のみを着るようにしているとSNSに書いていたのを思い出した。

 

そういえば、私も綿だけで服を縫う事に凝って、綿の生地を探しに日暮里まで行ったなあと思い出しもし、若い時の拘りや新鮮な感覚が一時期失われた事に対して、特に疑問も感じなかった自分が、一巡したようにも感じた。

 

先が無いかもしれないのが難ではあっても、少しずつ環境についてまた考える機会があったのは、ひとえに多くの良い人との出会いと、旅や活動を繰り返した功績なのだなと今は思う。

訓示と悩み

訓示を人に教える人ほど悩みを抱えて、悩みに対する耐性がないかもしれないと最近思うようになった。

 

それが悪いと思う訳ではない。私自身、そういう所があるかもしれない。

 

だが、私たちは訓示という建前上の教えを必死に学ぼうとするが、ありのままの自分でいても良いという一番基本的な事を、訓示の影響によって受け入れてはならないと考えているのだとも感じる。

 

最近出た葉隠の本を買って読んでみたら、ビジネスにおいての人間関係に役立つという内容になっている。

 

みんな苦しい中仕事のストレスに耐えかねて、こういった本を読むのだろうか。それが今の出版業界においては重要なビジネスポイントなのかもしれない。

 

どんなに偉いように見える成功した人でも、限りなく孤独だったり、下心だけで近づいてくる人々が信用できなくて人間不信になったりという悩みがつきないだろう。

 

必要なのは、気を抜けば尊大になる自分という生き物を、客観的に見つめる「悩み」かもしれない。

 

その人の外側から来る物事に対しての悩みは悩みの大半を占めるかもしれないが、自分を見つめる悩みは永遠があるように私は感じる。

 

尽きる事のない永遠の悩みが、解消されないからこそその人の人間性を豊かにしていくと感じるのは私だけだろうか。

最後の時と瞬間に生きる決意

 


1日の中でも感情の起伏が激しい時があり、落ち込んでいるかと思うとお茶を飲んではケラケラ笑っていたり、自分でも「さっきまで泣いていたカラスがもう笑っている」という言葉を実感する。けれども、そうしていると一瞬のその時を真剣に生きている意識もある。

 


考えてみれば、自分の名前を後世に残すために頑張るのでもなく、人より高い地位に落ち着いて豊かな暮らしをするために頑張っているのでもなく、瞬間を生きる感覚と決意というものは生活の中で重要な意味を持つものなのだとつくづく思う。

 


どちらかと言うと、生きていると嫌な事の方が多く、夕飯にサラダを作りたくてスーパーに行くと何もかも野菜が値上がりしていて、安いレタスだけで不平を言いながら帰ってくるという事も多々ある。

 


頑張って節約して貯めたお金で何かしようかと思っていると、お腹が痛くなったりして病院に行き、検査で財布が空になるという事もよく起きていたものだ。

 


ブーブー不満を口にしながらも淡々と生活していかなくてはならないのだが、いずれ自分の命も終わるという事を意識すると、リスクを避けて生きるという賢い選択に対して疑問も湧いてくる。

 


元々あまり健康体ではなく、計画通りに充実した生き方をしてこなかったので、より一層、人生計画を立てる事の無意味さについて考えるようになったのだ。

 


資格や学校というものが、就職には有利に働くからこそ、学業に精を出すべきと言われるが、答えのない事に対して答えがわからないから努力して考え続けるという行為に対しては、無駄な思考として切り捨てられてしまうきらいがあるように私には思える。

 


おばあさんと孫がいたとして、おばあさんの子供が仕事などで独りになったおばあさんの面倒が見られない場合、比較的近くにいて生活も共にできる孫がおばあさんの世話を引き受けたとする。

 


重要な事の判断を孫に任せられず、子供に色々な説明をしてもらいたがるおばあさんにストレスを感じ、自分がおばあさんの側にいる意味はないのではないかと孫は悩む。結局孫の方がストレスで体調を崩しておばあさんの元を去り、おばあさんが孤独死してしまったとする。

 


周りはそれはおばあさんの子供が面倒を見れば良かったと言うかもしれないが、仕事で手一杯の場合には自分の親といえど殆ど何もできず、同居する余裕もなく、孤独死はやむを得なかったのではないかと本人達は納得しようとする。あるいは、誰かヘルパーを雇ってあげたりすれば良かったのではと思うのだが、最後に独りにしてしまった事実は悔やみきれない。

 


孫の方は、自分が具合が悪くなっても側にいてあげるべきだったのではないかと、おばあさんの死後も悩み続けるとする。けれども、一緒にいたとしても逆に自分が具合悪ければ余計に負担をかけたのではないかと思ったりもする。

 


介護まで必要という訳ではないおばあさんの自由を奪い、施設に入れるのも無理があったりする。おばあさんは、住み慣れた家にいたいと言う。

 


そこに正解はあるのだろうか。

 


それとも彼女の死後にみんなが忘れてしまえば楽になるという問題なのだろうか。

 


この例は私が実際に経験した事なのだが、人の生死に関わる事には誰も正解は答えられない。

 


誰もが自分の人生の最後が孤独であるかもしれないと思うと不安になるが、自由に身体が効くうちは何でもできるから独りでも怖くないとも思うものだ。

 


不自由さを感じるようなハンディを負った瞬間から、人は生きる事に貪欲になる。

 


あるいは絶望感から自死したいと願っても、いざ自らを危険に晒そうとしても身体が思うように動かない事もある。

 


自殺の大半は「自殺に成功してしまった」とも形容できるかもしれない。

 


芥川龍之介は人生は先に経験する事ができず、水泳も泳ぎ方を習ってからやるものなのに、人生は全く初めての事なのにうまく切り抜けなくてはならない事になっているのに疑問を記している。

 


考えなければそつなくこなせるかもしれない事を、わざわざ難しく考えて困難にしていると言われればそれまでかもしれないが、人間は今まで考えずに文明を築き、考えずに消費し、考えずに繁栄する事で、今のような希望の持てない世の中を築いてしまったのではないだろうか。

 


目に見える成功のために尽力する事が大切と思われるが、実は正解のない事に対して心を尽くすというものが、これからは価値ある事になるのではないだろうか。

 


利益のために器用に生きる事よりも、やるせなさを抱えながら悩み、考える事にも価値はあるし、損ばかりとは言えない気がするのだ。

 


今という瞬間を感じて生きる事と、答えのない物について考え続ける決意と、それらが明日の私を支えてくれるという事実。

 


先が見えない世界には、考えという灯りが必要なのかもしれない。