kyoukokukenbunshi’s diary

狂国見聞史 生きづらい世の中に対して感じたことを書きます

不自由の死と自由の死

コロナ禍を機に、急速にタブーが増えてきている気がするのは、私だけだろうか。

 

以前は原発事故への不安を口にする事がタブーであったが、今はワクチンに対する不安を口にするのがタブーである。

 

昔、東京に住んでいた時に通っていたダンススタジオのギャラリーでは、元々、チベットへの弾圧や戦争の記憶を語る内容の展示が行われてきて、オーナーのご夫婦も極めて平和を愛する人達だったので、私はよくダンスを習いに通った。

 

コロナでダンス教室にも生徒が集められず、舞台もオンラインで配信したりと苦戦していたようだが、東京で「表現の不自由展」を開催するための会場としてそこが予定されていたらしい。

 

しかし、マスコミが東京での「表現の不自由展」会場について報道した結果、オーナーご夫婦が疲弊するほど酷い抗議や妨害が頻発したらしく、やむなく会場を変更する事になったらしい。

 

完全に「表現の不自由展」になってしまっている訳だが、何故ここまで不寛容で攻撃的な社会になってしまったのか。

 

人の良い、笑顔が素敵なオーナーご夫婦の事を考えると、心が痛む。

 

日常的に身の危険を感じるほどの嫌がらせを受けるのは完全に犯罪被害に遭っている事と同じなのだが、政治的な事を発言し、タブーに言及するのは、カルト化した社会では命取りになってしまう。

 

少し前まではお酒を飲めない、付き合いの悪い会社員は仕事ができない奴と言われて、セクハラをかわせずに悩む女性は弱いとされてきたが、そもそも悪乗りしたり下ネタを連発して人を揶揄う集団に馴染めないと、社会性がないと見放されるのはおかしい事ではないのだろうか。

 

暴力と性犯罪は分けて考えられがちだが、人を軽んじて自分が優越感に浸りたいという欲求に支配されているうちに加害の意識がなくなっていく構造は、どの社会にも共通して当てはまる問題ではないのか。

 

他人が言う事を気にしていたら何もできない訳だから敢えて政治的な事を積極的に発言する人がいるのだが、度が過ぎた嫌がらせや暴力の加害者にも、彼らなりの正義感があるのである。

 

SNSには他愛もない、料理や飲み物やペットや花の写真しか載せられない。むしろ、流行りの飲み物を買ってその写真を投稿する事が社会性として評価され、人が不安になる問題についてはニュースに書いてある内容しか言及しない事が優しさと評価される時代となったのだ。

 

できる事が少なくなり、発言できる事も限られてきたという事実は、人の心の奥底に影響しているのだろう。人々はイライラし、先の見えない状況に対して意見をコロコロ変える。

 

マスクは暑くなってきたらつけていられないと言ってみたり、マスクをつけずに歩いている人を見かけると非常識だと怒る。

 

自由の死には子供が一番敏感だと思うが、不自由の死は時として自由への恐れと不信感を産む。

 

集団の馴れ合いに馴染めない人間には、右寄りだろうが左寄りだろうが関係なく、人間の怖さだけが大きく見えてしまう。

 

理不尽な生をこの世に受けて、理不尽な人生を受け入れようと奮闘しているのは誰でも同じかもしれないが、問題は深刻に考えずに気楽に生きたらいいよという意見がいつもなかなか理解できない。

 

じゃあ、酷い嫌がらせを受けて困っている人も無視して、自分だけ楽しく飲み物を買って、オシャレなマスクをして、美味しい食べ物を食べていれば、それだけで良いという事になるのだろうか。

 

優しさの価値や意味まで変貌していく社会の中で、自分を変えさせられないように生きるのは困難がつきまとう。

 

だからこそ、これからを生きる私達は、自分の感覚に対して正直な目線を持ち続けていかなくてはならないと思っている。

 

 

人間関係の不思議

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沢山の友達がいて、いつもチャットでワイワイ話していたり、連れだって一緒に飲み物を飲んでいる人を観ると、身近に友達が殆どいない私は、自分とは遠い世界に生きている人達のように見える。

 


たまに知り合った人達とそうやって遊んでみても、気を遣って疲れてしまうので、気軽に遊べる友達が沢山いるというのは、実はとても神経をすり減らすのではないかと私自身は思ってしまうのだ。

 


私と仲が良い人達は、みんな遠い所に住んでいるので、主にメッセージで連絡をしているが、彼らも一様に孤独だと言う。

 


人間はみんな孤独なものだが、寂しさを紛らすために友達を持っているとしたら、最終的に人にとっての友達の定義は何なのだろうか。

 


華やかそうに見える人に、媚びを売って近づいてくる人達は、その対象が自分にとってあまり利益がないと思うと、スーッと離れていってしまうことが多い。

 


全ての人間関係を損得勘定だけで測り、利益になるかそうでないかだけを判断基準にして友達にしたい相手を選別していく事は、器用なのかもしれないが、それこそ寂しい事ではないだろうか。

 


相手の欠点まで愛する事はなかなか難しいが、それでも人は誰かにシンパシーを感じた時に信頼できるようになる。

 


共に苦しみを分かち合い、共に笑える時間というものは、沢山あるようでいて実際には少ししかない。

 


忙しくなってくれば仕方ない事なのだが、若い時は純粋な気持ちで苦楽を共にしてきた友達も、いつの間にか自分と比較しては妬んだり、優越感に浸る対象になってしまったら、それこそ苦しみになってしまう。

 


人間関係の不思議は、自分が相手によって損をする事の方が、結果的に得るものが大きいという事だ。

 


そして色々な辛酸を舐めて成長した結果、今度は自分が誰かに尽くして、助けていける人間になれる事。それが最も重要な事かもしれない。

 


他人に与える事は簡単にできるようでいて、なかなかできない。ましてや見返りを期待せずに何かをしてあげるという行為は、自分がそうされないとその行為の真の価値がわからないものだ。

 


一括りにできない色々な関係性のうち、苦しみを分かち合える友達というものは、かけがえのない存在である。

 


真剣に生きて、真剣に考える事は不器用かもしれないが、そうする事によって得られた友達は一生の友になると思う。

 


不器用な人間だからこそ、裏表のない純粋な気持ちで他人に接する事の意味を真剣に考えていきたいと思うものなのかもしれない。

 


何年も関わってきた友人達には、綺麗でまっさらな心が確実にある。

 


それを感じるたびに、自分の心の持ち方を反省しては考えているのだが、私の事は私が一番わかっていないのだろう。

 


人間関係は幻想的で雲が形を変えていくような儚さをも持っている。

 


現れたり消えたりする雲のように、思い出や夢の中で会う友人の姿は、実際にあまり会う機会がないためもあって、より一層愛おしい人間性を見せてくれるもので、私はそれをいつも糧にして生きている。

不公平感と羨望

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テレビを観て、華やかな服を着ている綺麗な芸能人を観て、彼らがブランド店でショッピングをしても、高いレストランで食事をしても、「やはり成功者はすごい」と言うが、生活保護を受ける人は「怠け者のくせに税金で寄生虫のように生きやがって」と批判する人が結構いるのを知り、なんだか腑に落ちない。

 


生活保護を受ける人は「ずるい」と不公平感を露わにするが、元々お金がある家庭に生まれた人や社会的地位が高い人は羨望の眼差しで観る。

 


これがこの社会の生きにくさの本質の一部だと思っているが、仲の良い友達と話をしていたら、「今は子供だって物を買うときに消費税を払っているのに、税金払ってない奴は発言するななんて変だよね。」とさらっと言ってのけていた。

 


昨年末は新宿のバー喫茶の外に、「路上生活脱出ガイド」と、寄付で集めたテレホンカードを置くという企画をやっていたらしく、使わないテレホンカードの寄付を募っていた知人は、ガイドブックもテレホンカードもだいぶ手にできた人がいたらしいとSNSで報告していた。

 


芸能人などの成功者は、観ていて自分もそうなりたいなあと憧れを抱く対象だからポジティブに支持するが、病気や失業などで生活に困窮する人は自分がなりたくない姿だから、無意識のうちに排除したがるのかもしれない。

 


だが、強い者に媚び、弱い者を挫くという発想は社会全体を息苦しくしていく。

 


今まで栄華を誇っていた人でも、一度私生活のスキャンダルをマスコミに取り上げられたらイジメの対象になるし、不満が溜まっている人々には鬱憤の捌け口が必要になってきてしまっているのである。

 

その様子を見ていると、人にとって他人とは、自分の鬱憤を晴らす対象でもあり、憧れる対象でもあるが、その人が存在している事に対する感謝はなくなり、感情消費の対象となっているのであるとも言える。

 


けれども、昔は航空会社や銀行に勤めているというと高級取りのように思われていたが、今の世の中では飛行機も飛ばないし、銀行も経営難で大変になっている。

 


経済が底無しに発展していくと皆が信じて疑わなかった時代は終わり、誰もが明日はどうなるかわからないという中で必死に生活している。

 


先が見えない不安の中で大切になってくるのは、真実を見極める目を持つ事と、博愛の精神かもしれない。

 


今は相反する意見の裏付けとなる証拠をネットで検索しようとすると、双方の意見を立証できそうな情報がいくらでも出てくる。

 


何が現実かがわからない中で生きていかなくてはいけないという、不確かさが社会に蔓延しているのだ。

 


不確かさを見つめてみると、人の人生にはこれといった幸せの基準はなく、それぞれが与えられた境遇の中で希望を見失わない必要があると思う。

 


だが、どんなに努力しても個人の力ではどうにもならず、今日の生活も困難という人に対してそんな事を言うのは酷であろう。だからこそ、困窮している人は社会が助ける必要がある。

 


あの人は生活保護を受けているから狡い、あの人は年金を貰っているから狡いという発想を人々がしていたら、政府にとって好都合だ。

 


不公平感を育てて社会保障の額を減らせば、いくらでも福祉の予算を削れるし、国民が自ら権利を捨てて自己責任論に埋没して、弱者の切り捨てに力を貸すようになるからだ。

 


社会は優劣や力関係だけで成り立っているのではないと思えたら、生きるのが楽になる人は沢山いるのではないだろうか。

母性神話と人新世

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小学校6年生の時に、学校で理不尽な事があった。次の年に小学校に進学する新入生達を、小学校6年生の女児だけで面倒を見て、新入生達の健康診断を学校で実施するという。同級生の男児達には、宿題を出すが、男児であるという理由で先に下校して良いというものである。

 


明らかな男女差別で、小さな子供が元々苦手な私は、女性であるというだけで子供の頃から良妻賢母である事を求められる気がして、学校の方針に真っ向から反発した。

 


結局一生徒に学校の方針を変える力はなく、仕方なく同級生の女児達と新入生の面倒を見た。新入生達も、私達が見た子は行儀良く、大きな問題は起きずに健康診断は終わったので、終わりよければ全て良しだったのかもしれない。けれども、同級生の男児達に冷やかされ、これはセクハラだと憤る気持ちは消えなかった。

 


未だに子供を持ちたいとは思わないし、少子化が必ずしも問題とは思わない。全ての女性が母親になりたい訳でもないと思うし、結婚だけが幸せだとも思わない。人口が増える事によって地球の環境が破壊され、結果的に今生きている子供達、私は母親にはならないが他の人が持つ未来の子供達が生きていけなくなる事の方がよっぽど問題ではないのかと思うからだ。

 


私は子供を持ちたいとは思わないし、全ての女性に母になる事を強要する社会の圧力はおかしいと、幼稚園児の頃から思っている。「貴方も将来ママになった時に…」と周りの大人から言われた時は憤然と怒る子供だったし、小学校高学年の時に、初潮が来る前に子宮を取りたいと親や担任の女性教師に言って驚かれた事がある。

 


基本的に、体調を崩して障がいがある事が判明するまでは、周りも私の事を将来母親になって労働力を生み出すべきだと考えていたようだ。

 


大人になって、なんで子供が欲しくないの、産むべきよと周りからセクハラされる時に面倒くさくて使っていた、子供を持たない理由が、「私には障がいがある。体力がないし、障がいは遺伝するから、子供は持ちたくないのだ。」というもので、それを言うと周りもある程度納得するようだった。

 


体力がなくて体調が安定しないから子供の面倒が見られないのは事実としても、自分でもとんでもない優生思想に基づいた、自分自身をも差別する発言をしていたと思う。障がいがある事を理由に強制的に不妊手術を受けさせられた事例が過去にあり、私ももっと昔に産まれていたら、(子宮を取りたいと願った事はあったが)個人の意思とは無関係に、強制的に身体にメスを入れられていたかもしれないと知ってから、障がい者である事を理由に子供を持たない選択をしても免罪される事も、障がい者でない事を理由に子供を持つ事を周りから求められる事も、障がい者であるが故に不妊手術を強要される事も、優勢思想から来る社会の歪みなのだと考えるようになった。

 


私は予測不能で危険な行動をする幼い子供が苦手だが、子供や子供を持つ親に対しては充分な社会的支援が必要だし、私が子育て中の人や子供の力になれる事があるならと思って積極的に手を貸そうと思っている。

 


子供の教育にお金がかかりすぎて、塾に行けない家庭の子供には良い教育を受けるチャンスが殆どない社会になったのはおかしいと思うし、そもそも公立の学校に義務教育で進学するのにもまとまったお金が必要な事もおかしいと思う。

 


近くの小学校では、学校が指定した上履きを各家庭に買わせるのだが、500円未満の上履きが普及しているのにも関わらず、指定の上履きは一足につき2300円に税金がかかる事を最近知って頭にきた。

 


正規雇用しかなく、どんなに頑張って働いても月に8万円ほどしか親が稼げない家庭が増えているのに、すぐ成長して子供の足にはサイズが合わなくなる上履きが、買うたびに2300円もかかるのでは、やっていられない。

 


上履きが高いために、上履きが買ってもらえず、体育の授業を見学しているだけの小学生が沢山いるそうなのだ。

 


更に、小学校で図工の時間に必要な彫刻刀も、高い物を家庭に売りつけて商売しているらしい。普通の彫刻刀ではなく、アニメキャラクターのイラストや有名スポーツブランドのロゴが入った、一セット3000円する彫刻刀を生徒達に見せて、欲しがらせて買わせるのだという。子供をだしにして大人が商売をする事で、各家庭の負担を増やす事は果たして良い教育システムと言えるのだろうか?

 


子供を持たない選択をしたら悪で、子供を相手に商売するのは良いというのだ。

 


子供を持たない選択をしても、子供の尊厳や人権を守る事は大切だと考える人は多い。

 


母性の強要をして、子供を持つように社会的な圧力を(特に女児に)かけるのも人権侵害でセクハラだし、そもそも性的マイノリティの人や障がい者は非生産的であると烙印を押して社会から排除する教育をし、初潮が来ている生徒にもきちんとした避妊法を教える性教育を学校でしないというのは、明らかに歪んだ考え方である。

 


母の日や父の日が近づくと、年端もいかない幼稚園児に親の似顔絵を無理矢理描かせて、発想が一番豊かな時期の子供に皆同じような絵を描く事を求めるのも異様である。母の日に母親の似顔絵でなく、リンゴや虫の絵を描いてもいいと思うし、そもそも人の顔として色をつける時に肌色のクレヨンだけ使わせるのも変な話だ。

 


社会に転がる問題に、素直な疑問を持って取り組んでいけるような考え方を育むのが、本来の教育ではないのか。

 


順位をつけて優劣を競うだけの社会に、もっと平等で助け合いのできる優しさを築いていけるようにするのが、これからの社会に必要な人間ではないのか。

 


また、障がいになる原因は取り除く必要はあるが、障がいがある子供なら要らないという風潮も変ではないのか。

 


人間が存在する価値が、大人の拝金主義にとって都合の良い、「生産性の高い」人間のみを産む事にあると考えられているなら、それは戦時中に将来お国の為に死ぬ兵士、兵器や軍服を生産する労働力を維持するために国が推奨した「産めよ増やせよ富国強兵」の思想と何ら変わらない。

 


これから北極の氷が溶けて都市が水没し、ある地域によっては砂漠化が進む時代に来ているのに、今生きている若い世代の将来を考える事はできないのか。

 


個人の意思を尊重して子供を持たない選択をした人間は、罪な存在なのか。

 


人口を増やして消費による利益を追求するだけが人間にとっての善なのか。

 


人間にとって大切なのは、評価される事よりも存在している事にこそ価値があり、存在しているだけでいいという安心感である。

 


それは母性とは関係なく、人間が人間の尊厳を大切にしていれば産まれるものではないのか。社会にそういう安心感が広まっていかないと、自殺者の数は減らないのではないだろうか。

 

天気

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気候変動が問題視されるようになってきたが、実際に豪雨災害が毎年増え、一日のなかで天気はころころ変わる。

 

さっきまでかんかん照りの夏のような天気だったと思えば、あっという間に曇って雨が降る。

 

洗濯物を干したまま外出するのが怖いのだが、人間様の人間様による人間様のための文化によって、ここまで環境が変わってしまったことを、気にする人ほど周りから面倒くさがられる。

 

それでもエコバッグを持ち歩く人は増え、プラスチックのストローやカップも減ってきているが、結構チタン製の金属ストローが役に立つ。

 

暑いときにアイスコーヒーを飲むのが好きなのだが、氷を入れるとストローなしでは飲みにくいので、気にしていないときはコンビニで貰ったプラスチックストローをよく使っていた。

 

プラスチックのストローの方が飲み心地がよくて味も良く感じられるような気がしたこともあったが、今はいつも金属ストローを使っている。

 

水筒に飲み物を入れて持ち歩くには小さめのボトルが向いているので、小さなバッグに財布や携帯やエコバッグ、手を拭くためのてぬぐいなどと一緒に水筒を入れる。

 

こうして少しは環境に配慮したライフスタイルを身につけようと努力はしているのだが、気温はぐんぐん上がり、天気はくるくる変わる。

 

大量に消費して利益を出す経済の仕組みが、歪んだ形で人の生活を支えてきたわけだが、豊かさの価値を問うてみると、人間は豊かな生活をしているだけでは幸せになれないということも少しずつ理解されていく必要があるのだなと思う。

 

もちろん私も着る物や食べるものにある程度の質を求めるし、物も欲しがる。

 

狭い部屋に自分の物を収納するためにある程度好きな物を売って処分したが、昔はかなり物をため込んで生活していた。

 

物を作るのも好きで、服やアクセサリーなどをよく作っていたので、独り暮らししていたときの部屋はミシンや工具であふれていた。

 

手作業で作るという行為が人間の精神を安定させたり、脳の働きをよくしたりということもあるから、病院や幼稚園でも折り紙をさせたりするのだろうが、作っては捨て、作っては捨てというのもなんだか罪だなと思い、古布やリサイクル品の服を買ってきてはリメイクしたりということもしてきた気がする。

 

今では絵を描く以外はほとんど制作もしなくなったが、気候変動にとっては作るという行為もあんまり良くないかなと思ってしまうきらいがある。

 

けれどもパソコンやスマートフォンばかりに頼って生きるのはそれはそれで脳に影響があるらしい。理論的にものを考えることができなくなり、常に情報を求めてネット中毒状態になると、受け身的な発想しかできなくなる。

 

どんなに色々な問題が身の回りにあっても、解決するために行動しようとは考えられなくなったり、環境や自然の異変に関して鈍感になることこそが人間らしさで賢さだと無意識に勘違いするようにもなる。

 

祖母から昔貰った誕生日のカードに、こんなことが書いてあった。

 

祖母は東北に住んでいたので毎年雪を経験していたが、毎年降っていた雪も少なくなってきて、降ってもベチャベチャしたぼた雪で、冬が暖かくなるのはうれしいけど地球が変になってしまうのではないかと心配していると書いてあったのだ。

 

今は祖母も亡くなってしまったが、年々暑くなる気候を見ていると、庭で毎日草むしりをして、四季の変化を楽しんでいた祖母の感覚の鋭敏さに驚かされる。

 

便利になっていく社会を豊かさの象徴として信仰するのは自然な発想なのだが、豊かさの価値を問い直す機会も昨今では多く持たれるようになってきている。

 

人が生きていくために適した環境を維持するために、経済の成長を犠牲にしていいのかという意見も多く聞かれるが、人の思考と環境や文化の崩壊が深くつながっているのは言うまでも無い。

 

ただ消費するだけの生活スタイルから、江戸時代のリサイクル文化へと戻るのは簡単ではないかもしれないが、白くもくもくとした夏の雲が春に見られるようになったのは不気味だなと、怖くなってしまう。

 

これから雨の季節になる。台風もやってくる。そういうときに、被害を出さないだけでなく、何が一番必要な対策かをきちんと考えていける社会になってほしい。

 

 

 

 

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犬好きの私は、街中で犬を見かけると目で追っているが、犬の方も私の視線に気付くと、猛烈な勢いで飼い主さんを引っ張って、こちらへ突進してくる子がいる。

 

「うわあ、可愛い」とつい言ってしまうが、引っ張られた飼い主さんの方は迷惑そうにしている事もあれば、「うちの子ってそんなに可愛いかしら」と考えているのか、照れ笑いをしている事もある。

 

いずれにしても私は犬が飼えないし、他人様の犬だから触らせてもらう事もできないのだが、異種同士の動物間の心の交流には感動的な要素があるし、交流した後には満足感がある。

 

犬の側は、振り向いてこちらをずっと眺めている子もいれば、すぐに別の物に興味が移ってまた飼い主さんを引っ張っている子など、別れた後の反応も様々で個性がある。

 

人と犬はベストフレンドだと犬を飼う人は胸を張って言う。私は猫も好きで、猫はその人が餌をくれる、くれないは関係なしに特定の人を好く性質があるのも面白いと思うが、街中であまり猫を見かけないので、もっぱら犬観察をしているのだ。

 

飼い主さんが若い人だと犬もぐいぐいとリードを引っ張るが、飼い主さんがお年寄りだと、犬は大概、引っ張らないで大人しくゆっくり歩いている。3歩下がって師の影踏まずをやっている犬を観ると、大したものだなあと思ってしまう。

 

人間は、なかなか犬のように一途で誠実な生き物にはなれないかもしれないが、彼らがてってっと歩く姿に癒され、膝に頭を乗せてくる姿にエネルギーを貰っている。

 

じっとスーパーの前で飼い主さんが帰ってくるのを待っている犬は哀愁がある。

 

そういえば、他人様の犬でも平気で撫でていた小学生の頃、仲が良かった犬は、私が近づいてくると尻尾を高く上げて振りまくり、私がバイバイと手を振って帰ると、じっとこちらを観ていた。だんだん尻尾が下に下がってしまう犬を観て、あの子はどんなに退屈で人恋しい思いをしていたんだろうといつも考えた。

 

その犬も歳を取ってもう亡くなったが、今でもその犬が嬉しそうにこちらに駆け寄ってくる姿が目に浮かぶ。

 

ずっと記憶の中に生き続けているその犬が私にくれた愛情は大きい。

私も犬のように懐の深い生き物になれないなあと思いつつ、いつも犬を観ては楽しい気持ちになる。

 

条件なしに、存在するだけで嬉しい生き物だといつも思っている。

 

 

 

 

だんご

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駅まで母と買い物に行った。

最近、田舎の駅でも土産屋が充実してきて、その土産屋に餅菓子や巻き寿司でちょっと有名な店のだんごや大福餅が置かれている。

 

そこのだんごが結構美味しいのだが、ある時間になると100円値引きされる。

 

野菜などを下のスーパーで買ってから土産屋を覗くと、だんごと大福があるので、母が値下げされるまで待ちたいと言う。私はまたスーパーに戻り、母と私の飲み物を買って戻ってきた。母がちょうど、だんごを買っていた。

 

「別に元値がものすごく高い訳じゃないから、値下げ待つのもいやらしいし、元の値段で買ったわ。」と私に言う。

 


二人で飲み物を飲んで椅子に座って一息ついていたが、ちょっと土産屋を覗いてみたくなり、母を椅子に残して店に入った。

 


すると、一人の男性客がやってきて、だんごの棚を覗いていた。だんごがもう無い事がわかると、怒ってレジの女性に詰め寄った。

 


「だんごは?」

 


レジの女性はだんごの棚の前まで行き、一応観てから、「申し訳ございません、おだんごは今日、売り切れてしまいまして…」と申し訳なさそうに言った。

 


男性はまた「だんごは?」と詰め寄る。俺のだんごなのに!と言いたげだ。

 


女性はまた、申し訳なさそうに「申し訳ございません、大福餅ならございますが…」と言うと、男性は3回目の「だんごは?」を言う。

 


私は青ざめた。私達がだんごを買ってしまった事が男性に知れたら、食べ物の恨みは怖いから血を見るかもしれない。母の所に戻り、「ねえ、だんごがなくなって怒ってるおじさんがいるよ」とそっと耳打ちすると、母もびっくりして「どこどこ?」と聞いてくる。私は買っただんごの上に物を置いて隠した。

 


怒って帰っていく男性を見守った後、母は「なんか、おだんご買ったら、レジの女性がすごく喜んでいたのよねえ。あのおじさん、いつも値引きシール貼られるのを待って、このおだんご買い占めて行くんじゃないの?」と私に言う。

 


観ると、レジの女性がもう一人の店員の男性とこちらを観て、大笑いしている。彼女達もだんごおじさんに参っていたのだろうか。

 


観ていると、みんなだんごの棚をチラチラ覗きに来ている。

 


地元の人達は自分の気持ちに正直な人も多いが、こんなにだんごに人気があるとは知らなかった。

 


別の日もだんごの棚をチェックしてみたら、残っている日もある。

 


だんだん地元だけで用事を済ませるようになってくると、今まで都会に客を取られてきた商店はみんな気合いが入るらしい。

 


スーパー化している近所のコンビニにも、珍しい野菜やお菓子が並ぶようになってきている。

 


便利になったと喜んでいるが、よりどりみどりの品物が沢山ないと満足できないのは、人間の困った性かもしれない。

 


だんご一筋のだんごおじさんに関して言えば、三周くらい回って可愛い人ななのかもしれない。

 


しかし、だんごなんて食べられないくらい生活に困っている人も沢山いるのだなと思うと、暗澹たる気持ちになる。

 


駅に行くと連日のように人身事故で電車が止まっていて、帰れない高校生やサラリーマンやOLが溢れている。

 


自助努力のし過ぎで電車に飛び込んでしまう人達は、決して弱い人達ではない。

 


誰も助けてくれないと絶望してしまう気持ちは、社会が受け止めて救えるはずだが、なかなか福祉に繋がらないのが現状だ。

 


そう言えば、私が10代の頃、病気が辛くて夜に家出をして、車の前に飛び出した事がある。警察に保護され、車を運転していた家族に平謝りに謝った。

 


泣きながら病気で学校に行けず、勉強もできなくて、友達もいないから辛くて死にたかったのだと言ったら、その家のお嬢さんがびっくりしたように、私で良ければ友達になってあげるよと私に言ってくれ、警察の人は貴方の命は貴方だけのものではないから自分を大切にしなさいと言って自分の夜食のどら焼きをくれた。

 


今でも思い出すと、人に迷惑をかけて悪かったなと思う。

 


変な話だが、和菓子の餡は人を安心させてくれる味だ。

 


寂しさと悔しさから走ってくる車の前に飛び出して迷惑をかけたのに、友達になってあげるよと言ってくれたお嬢さんの優しさや、自分が食べようとしていたどら焼きをくれた警察官の優しさは、未だによく覚えている。

 


私が和菓子好きなのも、そういう記憶から来ているのだろうか。

 


だんごおじさんはいつも来ている訳ではないのかもしれないが、彼のだんごに纏わる話も知ってみたいものである。