kyoukokukenbunshi’s diary

狂国見聞史 生きづらい世の中に対して感じたことを書きます

観る楽しみ 知る悲しみ

美術館やギャラリーに殆ど足を運ばないので、もっぱらネットでアート作品を観ているが、なかなかみんなウィットの効いた作品を作っている。

 


観る事はエネルギーがないと楽しめないのだが、新しいアート作品を観てあれこれ考えるのは楽しい。

 


アート作品に限らず新しいものを観るのは楽しいのだが、新しいものについて知るとふと、寂しさのようなものも感じる。

 


これについて知らなかったら私はどう生きていたのだろう、とつい思ってしまう。

 


自分が今の生き方をしていなかったらどうだったのだろう、あの時あの経験をしていなかったらどうだったのだろうと考えてしまうのは、人間の性なのだろう。

 


経験する事で無駄なものは何もないと思うが、自分でも嫌な事ほどよく覚えていたりするので、マイナスのエネルギーはプラスのエネルギーよりも強いなあとつくづく感じてしまう。

 


しかし、楽しい経験も時々思い出す。10年以上前に知人達の集まりに呼ばれて、持っていったパンが喜ばれた事や、その時盛り上がって楽しかった事、一人暮らしをしていて、好きな洋裁ばかりしていた事など、今となっては夢のような記憶である。

 


知る事によって寂しさを感じると書いたが、知る事は人にとってどういう意味があるのだろうか。今は小さな街であまり外出もせず、友達にも会わないで生活しているので、刺激になるような事は殆どない中で、目まぐるしく変化してきたここ数年は忘れていた感覚を再発見している。

 


春が近づいて芽吹いてきた野花を観ると、昔は摘んでいたのが、最近では写真をよく撮っている。

 


新しい形で草木に触れて、今まで何年も忘れていたそれらへの愛着がまた芽生えたのかと自分自身に少し驚いている。

 


草木の存在をほぼ忘れて生活していた頃は、物を買うとか、作ると言った、人間の欲求らしい欲求に支配されていたように思う。

 


知る事の寂しさは、自分の人生を振り返る寂しさとほぼイコールなのかもしれない。

 


自分の目が見える事を前提として話をするのは烏滸がましいが、観る楽しみは同時に知る悲しみを一緒に感じるのだ。