依存社会
以前はよく外出した時に喫茶店でコーヒーを注文し、コーヒーをちびちび飲みながらスマートフォンやタブレットでインターネットを使っていた。意外と日本の喫茶店ではwifi設備が整っていないところが多いので、wifi設備があってコーヒーも美味しい店を探しては、外出する度にそこに行った。
外出自粛を求められる今では、地元の喫茶店に行く機会も減ったかもしれないが、自宅でコーヒーを飲む時間も増えてしまった。
昔はあまりコーヒーが好きではなかったが、最近は外出できないストレスもあって、事ある毎にコーヒーを飲んで気分をスッキリさせたいという気持ちになる。
完璧にカフェイン中毒で、夜もあまり眠れないので、少しコーヒーを飲む回数を減らそうとするのだが、なかなかうまくいかない。依存症である。
母はコーヒーをあまり飲みたがらないが、代わりというか趣味というか、映画をよく観ているので、長時間画面に集中できない私から観たら、映画を観られる母が羨ましいものである。
私たちは手慰みとして何かに依存するようになり、依存が消費を支えているのだから、インターネットやスマートフォンの普及は世界の在り方や人の生活、脳を大きく変えてしまったと思う。
散歩したり生活必需品の買い出しに行っている間は携帯電話の存在すら忘れているが、今はスムーズに連絡を取れない人イコール、しっかりしていない人のように周りから思われてしまう。
子供でも大人でもスマートフォンの画面を食い入るように見つめて誰かとオンラインで連絡を取り続けていないと、たちまち不安になる。それもある種の中毒のようなものなのかもしれない。
インターネットや携帯電話が普及していなかった子供の頃は、何か欲しいものを手に入れるにしても、何か観たいものがあったにしても、それを手に入れたり観られるようになるまでにかなり我慢する時間が必要だったし、今から考えれば随分面倒な手順を踏まなければいけなかった。どちらかと言うと、急がば回れという諺の意味がよく理解できる程度の技術しかなかったから、私たちには考える時間があった。
携帯電話やパソコンという技術の進歩は色々な情報を私たちに素早く提供してくれるようになった。昔は観る事を諦めざるを得なかった昔の珍しいバレエの舞台の映像もyoutubeに載っていていつでも観られるばかりか、知らないものまでピックアップしてAIがお勧めしてくれる。自分で思考する時間がなくても、次から次へとわんこ蕎麦のお代わりのように自分の皿に魅惑的な料理が盛られる。それは、一見便利で楽しいかもしれないが、料理を与えて食べさせているAIの側から観たら、人間の思考を麻痺させて手懐けるにはうってつけの方法でもある。
昔、モルモットを飼っていたのだが、彼女は母が自分に甘くて、冷蔵庫の扉が開く音がしたタイミングで鳴けば野菜や果物が貰えるという事を学習していた。だから、母が冷蔵庫を開け閉めするたびに大騒ぎになった。もしも人間ではなくて機械が、ある条件でモルモットに野菜をあげるような仕組みを作ったら、モルモットも機械に依存するようになり、機械を操作する方法を覚えてしまうかもしれない。
刺激を次から次へと欲して、新しいものを手に入れてまた別の刺激を欲するという本能は、人間だけに備わったものではないのかもしれないが、コーヒーにしても携帯電話にしても、私も刺激に依存しすぎているかな、と思う瞬間がある。
本を読んだり、日記を書いたり、人とおしゃべりをするのでも、スマートフォンが一つあるだけで済んでしまうのだから、私たちの好みや考えというものは、今やスマートフォンが把握しているのである。
時代は便利になったように見えて、労働時間は増えて、私たちはスマートフォンに縛り付けられるようになり、自由というのはインターネットで動画を観て、買い物をして、美味しいと言われる店のドリンクや料理をSNSにアップする事のように考えている。
現代人の自由というものはストレスを引き受けた代償行為のようになってしまったのだ。
たまに、昔、無心になって昆虫を探して観察していた事を思い出す。私は昆虫が好きで、学校から帰る時も常にアリや蓑虫やバッタを採っては家に持ち帰り、親から怒られていたが、自然に触れて時間を忘れていたあの頃に戻りたくなる。
だんだんコンクリートで固められた道路に、携帯電話を売る店や中古パソコンを売買する店が増えていくのを観るたびに、それらの機械に依存せざるを得ない人間の末路を想像しては気持ちが落ち込んでしまう。
実は、人間に必要なのは技術ではないのではないかと考えるのだが、技術依存症にならないと生きていけない現代人は、先が見えない不安をまたスマートフォンやパソコンで解消するしかなくなっている。
物を作って売るという社会にも限界が見えていながら、今日も明日も私たちは買い物やインターネットで不安を見ないようにして生きていくのだろうか。