kyoukokukenbunshi’s diary

狂国見聞史 生きづらい世の中に対して感じたことを書きます

電車の中

東京に用事があって出かけた。用事を済ませてから、さあ家に帰ろうと田舎へ向かう電車に乗った。

 

住んでいる地域の最寄駅までは、都内から一時間弱はかかる。運良く座れたので、一緒に来た母と並んで座席に座っていた。しばらくすると、母の隣に座っていた女性が、大きなスーツケースを抱えた若い女の子に席を譲った。見ると、その女の子はぐったりしていて、顔に血の気がない。あまりにも具合が悪そうだったので、途中で更に席が空いた時に母と席を譲った女性と私とで、少し場所を取りはするが3席くらい使って横になる事を勧めた。彼女は貧血がいつも酷くて、よく電車の中で具合が悪くなると申し訳なさそうに言った。

 

席を女の子に譲ってくれた女性が途中の駅で降りて、母と私とで、私達が着ていたコートなどをかけて、様子を見ていた。駅員を呼んで看病した方が良いのだろうかと途中で乗ってきた年配の男性が心配していたが、駅員を呼ぶと電車が止まってしまう。

 

本当に意識がなくなるとか、もっと具合が悪くなるようだったらそうするしかないのだが、周りの人達は「電車よ、止まらないでくれ」と祈っている顔つきで必死に無視している。

 

今はコロナ禍だから、みんな具合が悪くなっている人を見かけてもあまり関わりたくないのだろうか。

 

途中で乗ってきて女の子を心配してくれた男性は、彼女が降りなければならない駅より先の駅で降りるそうで、彼女達より手前の駅で降りなくてはならない私達から、世話を快く引き受けてくれたから、ホッとした。

 

家に無事帰ってからその話を家族でしていたが、父が本当に金欠で貧血になった人なのかもしれない、と言った。

 

確かに、私が代わりに持ったスーツケースには、宅急便の荷物につけるタグがついたままになっていて、あちこちを転々として生活してきたのかもしれないと想像させる点があった事を思い出した。

 

だんだん、物価も上がってきて、前は100円くらいで中くらいの長ネギが2本入っていた袋に長ネギが一本入っているだけになり、うちも貧乏暮らしの中でどうやっておかずの量を維持するか悩みながら生活しているが、不景気と福祉の不足は、どどんと財布にダメージを与えるだろう。

 

若い人達には意欲がないとよく言われるが、何の後ろ盾もなく、奨学金などの借金を抱えて生活している人達は、まずお金もないし何かするエネルギーも湧かないかもしれない。

 

それにしてもみんな冷たくなったなあと感じもしたが、社会に余裕がなくなるとみんな具合の悪い人を助ける事もできなくなるという事を痛感した出来事でもあった。

 

 

満たされないという自由


満たされない、悲しい気持ちというものは誰にでもあるが、まあ仕方ないかと思うのは大切な事だと最近、感じた。

 


しかし、人間は元気な時は何かしていないと気が済まないというか、常に何かを表現したり、作っているものだ。

 


しばらく何年か何もできなく、体力も異様に低下して、たまに文章を書く以外は非常に、世間で言う非生産的な生活を送っていた。

 


最近は筋肉の緊張を取る薬を飲む事を辞めた。それのおかげなのだろう、少し活動的になれた。

 


活動的になれたのは良い事かもしれないが、人間が活動するとゴミは出すし空気も海も汚れる。少し元気になると、色々欲しくなったり、食べたくなったり、欲求が出てくるので、環境には悪いよなあと思いながら、それでもやる気が出てきたのは喜んでいる。

 

 

 

10年前の原発事故の後、かなり口にするものに過敏になって、魚を食べないと家族に宣言して顰蹙を買い、水道水も飲まないと宣言して顰蹙を買い、何かと人間関係で摩擦が多かった。

 


今では魚もある程度食べてしまうし、水道水をグビグビ飲むが、環境や社会の問題に対する意識はこうも人を分断してしまうのだと痛感する。

 


身体の具合が一時悪くなってから、少し家族とも摩擦が減ったというか、私も家族に合わせられるようになり、家族から見たら妙に神経質なところが減ったように思えるのだろう、関係は良くなった。

 


だが、社会問題に対する危機感は薄くなってしまったかもしれないとも感じる事がある。

 


どこか自分に対して納得いかないのだが、誰でも順風満帆という訳ではないのがわかってから、絵本の「でんでんむしの悲しみ」ではないが、すっと胸が軽くなってきている。

 


私は子供の頃から納得いかない事や自分の本心に沿わない事があると、頭では仕方ないとか納得しなくてはならないと思っていても、精神や身体の具合が悪くなってしまうという困った特徴があったので、最近は融通が少しは効くようになったのだろうか、いやそれとも、家族に合わせるようになって、自分らしさは殺してしまったのだろうか、と考えあぐねるのだが。

 


満たされない気持ちと自由とは、相反するようでどちらも自由でいるために必要な事である。

 


私たちは自由とは、好きな時間に好きな事をして、好きなものを買うという風に考えがちだが、人間には手に入れられるものや環境に限界があり、そのそれぞれの生活の中で腐った気持ちになっている事が多くても、一瞬、救われた気持ちになる事がある。

 


そして、世の中の忙がしさの垣間に見る、何気ない日常の中に、その救いが見える時がある。

 


雑草の生えた空き地が少なくなってきたなあと感じていたので、銀行の近くに雑草が生えている空き地を見て、そこをぶらぶらしていたら、奥に誰かが野良猫に餌をやっているらしきスペースも見つけた。

 


野良猫に餌をやるのは良くないという認識が日本にあるが、そう言えばトルコでは猫を街中で飼うような文化があるなあと、価値観の違いを感じたりもした。

 


その価値観の違いについて考える時にも、同時に自由を感じる。

 


昔はこう考えてはいけない、ああ考えてはいけないと、自分の感情を否定する生き方をして、自分にも他人にも厳しかった。

 


自分の置かれた境遇を恨んだりもした。

 


満たされない事と自由とは切っても切れない関係で、制約ある今の境遇の中で、どれだけありのままの自分を受け入れているか、が自由でいるために重要になってくる。

 


仕方ないでは片付けられない社会問題は別として、自分に対してはまあ仕方ないかな、と思い始めた時に、少し自由に近づけるように想う。

 

そして自由とは、漠然とした認識しかできないが、満たされない気持ちとそれの許容のバランスが取れた時に初めて、その輪郭を感じられるような気がする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

現代の徴用工


東京オリンピックを開催する見込みがあるとしたい時は、コロナウィルスの一日の新規感染者数がぐっと少なくなるので、報道というものは如何様にでも操作できるものだなあと感心しながらニュースを観ている。

 


圧力に抗いながら苦しんで報道しようとしているジャーナリストもいるのに、彼らに冷や飯を食べさせる事が政府の目論見のようだ。

 


女性差別発言問題とオリンピック開催の可否は本来別物に思えるが、それらを絡めているあたりが非常に怪しい。オリンピックどころではない国民の生活や気持ちなどまるで眼中にない。

 


私たちはもっと国民の生活を考えて政治をしてほしいと願っているのだが、オリンピック開催となると、本音や疑問を口にするのは良くないと思ってオリンピックを開催する事に対する意見ははっきり言わなくなってしまうし、コロナウィルス撲滅の大義名分のためなら個人の人権が侵害されても文句を言ってはいけないと思いこんでしまう。

 


仕事があっても勤務日数を減らされる人も多く、収入が少ないのでギグワーカーになって、事故に遭いやすいウーバーイーツや単発のアルバイトをしたりする。

 


戦争も一度始めるとなかなか辞められないものであるが、オリンピックも開催すると宣言するとなかなか中止にはできない。

 


本来、たった3週間のイベントのために使えるお金があるなら、貧しい人や災害で被災した人に回すべきと考えている人は多いが、なかなかそれをおおっぴらに言えないのである。

 


世界的に不景気と気候変動による災害、コロナという厄介な病気による社会の監視化が広まってきているが、実際のところ、この状況を冷静に見られる人は殆どいないのかもしれない。

 


オリンピックが開催されるとなると、企業や大学から狩り集められた数多くのボランティアが無給で働かされる事になる。医療スタッフまでボランティアでまかなうというのだ。この医療崩壊が始まっている時に、それはないのではと思う。

 


先日、親の通院に付き添いで行ったら、病院の廊下を輸血しながら歩いている患者を観てびっくりした。待合室で具合が悪くなった人が、病院のスタッフに横になれないか聞いていたが、断られた。

 


病院も余裕がなくて、そういう状況なのだ。

 


韓国の裁判所が徴用工の人達に関する裁判で日本に賠償を命じたニュースをふと思い出した。

 


オリンピックのボランティアにしても、ギグワーカーにしても、働く人はみんな現代の徴用工と言える。

 


もちろん、戦争中に徴用工にさせられ

た人々はもっと酷い目に遭い、みんな日常的に暴力を振るわれ、自由もなくて、想像するだけで恐ろしい環境にいた訳だが。

 


しかし、こんな状況下でもまだオリンピックと騒いでいるのが、変な印象を受ける。

 

 

 

インフレは禁句

 


みみっちい話なのだが、最近、食料品の中身は少なくなったのに、値段が高くなっている。

 


先日、袋入りの乾パスタを買ったので、家族でお昼にパスタでも食べようと、今度はドラッグストアにパスタソースを買いに行った。一人前分ずつ袋に包装されたパスタソースだと、二パック必要で、一人前分余ってしまうし、やや高いのでコストパフォーマンスが悪い。そこで、二〜三人前分が一つの缶に入っているものにしたのだが、なんだか前に買った時よりも一回り小さくなっているような気がする。玉ねぎが家にあるので、みじん切りにして炒めてこのパスタソースに足せば良いと思って、ウェットティッシュや冷凍うどんと一緒に買ったのだが、レジに行くと前はこんなに高かったかなと思う会計になっている。

 


必要最低限の買い物をしているつもりなのだが、最近は何でも量が少なくなり、高い気がする。量があれば、質がうんと悪くなっている。

 


実質的に物価が上がり、インフレになってきていると思うのだが、株価が上がった事はニュースになっても、インフレのイの字も出てこない気がする。

 


新聞の印刷に使われるインクの質も下がったように感じる。大手新聞でも、色がなくなって、なんだか戦時中の白黒の新聞の色合いに近づいたように思える。

 


それだけどこの会社も経営が悪化して良いものを作る余裕がないとも言えるが、今まで正社員がやっていた仕事が非正規職員の仕事になり、非正規であっても雇い続けるのが難しくなると今度は単発のアルバイトに現場を任せるようになる実態を、身を持って知ってきているので、企業にはどこにも専門の人がいないというのも事実なのかもしれない。

 


新聞やテレビは景気全体の話や企業の業績の話はする。従業員が勤務日数や給料を減らされるのは企業が苦しいのだから仕方ない、国も赤字だから保障はこれ以上できないと言わんばかりだ。

 


単発でできるアルバイトの紹介をするアプリを携帯に入れているのだが、仕事を見ると宅配デリバリーの仕事や、保育士の仕事まで日雇いになっている。せいぜい、日給4000円にしかならないアルバイトの仕事が、自動車免許保有者や保育士の資格がある人のみを対象に紹介されているのだ。

 


これでは、資格を取るために必要なお金を出せない人は日雇いアルバイトすらできないのである。

 


インフレという言葉も禁句のようになり、具体的に労働者を助ける制度も充分に働いてない中、どんどん物価だけは上がっている。

 


充分に食べられない人も多いだろうし、少し食料品や衛生用品を買うだけであっという間に財布が空になるのでは、困窮して自殺を考える人が増えるばかりである。

 

 

 

 

思い継がれる感覚


キース・ジャレット氏はピアノを弾く指が速く回らない事に対して自信を失って自殺してしまったというが、ピアニストのフジコ・ヘミング氏はかなりゆっくりピアノを弾くので、強いねと親と話していた。

 


プライドから何かが出来なくなると自信を失ってしまうのが人の常だが、もしかしたら何も出来なくなった自分を受け入れていく事でしか人生の意味は得られないのかもしれない。

 


薬の影響なのか何なのか、あまり体力がなかったり、集中力がなくて記憶力もないという私にとって、過去の自分と今の自分を比べて落胆するばかりの日々なのだが、そういう落ち込んでいる時には何か私が好きなものを観たり、聴いたりするのが大切だと思って、YouTubeの勧めてくる動画を観ていたら、チューリッヒ歌劇場が新しく制作したオペラ劇「オルフェオとエウデリーチェ」のCMがあった。それを観たら、自分のダメさ加減に腐っていた心が、たちどころに潤いを得たような気持ちになり、自分のダメな点もネガティブな思考もどこかに飛んでしまった。それくらい、美しく素晴らしい舞台のCMだった。

 


https://youtu.be/_eRPNsXgigM

 


グルックが作曲したオペラ曲「オルフェオとエウデリーチェ」は、最初にピナ・バウシュ氏が振り付けたオペラバレエのDVDを観て、全曲を聴いた。ピナ・バウシュ氏の舞台が好きだったので、パリオペラ座バレエ団が演じたその作品を映像で観たのだが、ダンスもバレエから動きが抜けきれてない気がしたし、演奏もダンサーに合わせてかなりゆっくりしていて眠くなってくるものだったので、舞台に関してはピナ・バウシュ氏が設立したヴッパタール舞踊団の演ずる舞台を観てみたいなと思った。表現や内容については良いと思ったが、キレとスピード感のあるオペラ全曲の演奏が聴きたくて、何を指揮してもバッハのようになるカール・リヒター氏が指揮する「オルフェオとエウデリーチェ」のCDを買って聴きなおした。

 


ギリシャ神話を題材にしたオペラだが、亡くした妻を下界からこの世に連れ戻そうとする際に、後ろを歩く妻を振り返って見てはいけない条件を課せられるオルフェオの心理を巧みに現した音楽だ。

 


チューリッヒ歌劇場の舞台が何故興味あるかというと、11年くらい前に「巨大なるブッツバッハ村」を池袋の東京芸術劇場で観てから気になっていた、演出家のクリストフ・マルマーラー氏の演出する舞台だからでもある。

 


ダンスが元々好きだったが、マルターラー氏の音楽劇の演出はダンスと演劇の境目をいく演技で構成されているように見える。役者はオペラも歌うし、楽器の演奏もできる、演奏家兼役者のような人が多いのだが、彼らが音楽に合わせて表現する動きはなんだか子供がふざけている様子からヒントを得た動きのようでもあり、それが不自然なようでいてダンスよりも自然な動きなのだ。

 


何を観て人は自然だと感じ、何を聴いて人は感動するのかについて、昔、ヨーロッパの舞台に立つ売れっ子ダンサーの伊藤郁女氏に話してもらった。

 


人が感動する要素は、より自分の生活に近い表現の中にあると伊藤郁女氏は言った。演技はわざとらしくなればなるほど不自然だから、演技の中で素になる事が一番難しいのだと彼女は言う。

 


私たちは仕事の電話でも買い物のレジでのやり取りでも、緊張すれば変な対応をしてしまうし、慣れてくればスマートに対応できるようにもなる。

 


しかし、レジが自動化されたり、キャッシュレス決済が当たり前になったり、慣れない事が増えてきた今、技術に支配されて生きているのである。

 


マルターラー氏の「オルフェオとエウデリーチェ」を観て感動したのは、彼があくまでも生身の人間の演技と演奏に拘り、生活を舞台で表現しているからだと思った。

 


下界に連れ去られて亡くなったのは私達の感覚や心であり、狂気の現世にそれらを連れ戻すのか、はたまた狂気の下界が現世になってしまったのか、混沌とした今の世の中に感じるのは、過去の自分の感覚を思い出す事が次第に困難になっていく事である。

 


その不自由さが羽根になれば、いつか心を取り戻して羽ばたけるのかもしれない。

 

人生の背景と音、音楽


近くのスーパーから帰る道で、キジバトの鳴き声を聴いた。田舎ならではだが、デーデーポッポ、デーデーポッポと単調に鳴く声は、なんとなく哀愁が漂う。

 


家に帰ると腹痛が襲ってきて、仕方なく部屋で寝ていたら、今度は子供が外でかくれんぼをしている声が聴こえる。もういーかい、まーだだよ、というかけ合いが、私が子供の頃と今も全く変わらないのが印象深い。

 


小さな事かもしれないが、聞き慣れている生活の音や背景の音というのは、変わっているようで変わらないものの存在を教えてくれ、自分が聴きたいと思う時に聴こえるわけではないが故に、不意に安心させてくれるものである。

 


音楽はまた違う性質がある。自分が聴きたいと思う旋律を自ら聴こうとする、聴きに行くという意味で、私たちは好きな音楽に対して積極的である。

 


昔、コンテンポラリーダンスを創作していた。音楽も編集できる人に頼んでオリジナル音源を作るのだが、私は音楽と生活音(足音や機械音、車の音など)が組み合わさっていた方が面白い音源になるような気がして、わざわざタワーレコードで雑音素材を集めたCDを買ってきたりして、それらの生活音と音楽を組み合わせていた。

 


その素材のCDの中に、フランスのエレベーター音だけ集めたものがあった。エレベーターマニアの製作者が、パリのあちこちのエレベーターの音を録音してまわり、一つの音楽としてアルバムに納めた、ユニークなものだった。

 


私はそのCDの中に入っていた、モンマルトルのある駅、Lamarck-Caulaincourt駅のエレベーター音が気に入って、ダンスの音源に取り入れた。その頃は海外に行った事もなかったので、そこの駅がどういう作りになっているかも知らなかった。ピーピーピーピーと警告音が続いた後に扉が閉まる音がし、フランス語で出発を表すアナウンスが流れる。グゥーンとエレベーターが上がる機械音がした後、また止まる。

 


その後、フランスに行った。地元の人と仲良くなり、絵や写真をやっているアーティストの知人と、モンマルトルにアトリエがあるので行ってみた。

 


最寄り駅はLamarck – Caulaincourt駅だった。そこに行ってみて初めて知ったが、そこはモンマルトルの丘の中腹にトンネルを掘って作られた駅で、メトロのホームと駅の改札階の間にかなりの距離があったので、大きなエレベーターがあったのだ。それに乗って初めて、あのCDに収録されていたエレベーターの場所がそこだったのだと知った。

 


それは不思議な体験だったが、時々私は生活の中で聴こえる音と、音楽との性質の違いについて考える。

 


日常的に音楽を聴いている人もいるだろうし、楽器を嗜む人は毎日繰り返し音楽について考え、弾くだろうが、旋律とも違う生活音や背景音には、懐かしさを感じる何かがある。

 


一人で耳を澄ませている時に、不意に聴こえる音が、殺伐とした世の中にも変わらない音があるのだと安心させてくれるのだ。

精神の中に生きる

社会的な成功を夢見て努力することは多いだろう。

 

子供たちが塾に通うのも、将来、安定した仕事ができるようにと願う親が多いからだろうし、受験が過熱するのもどこの国でも似たような状況になってきているのだろうと思う。家が貧しくて学校に通うどころではない国に対しては、大抵私たちは教育を受けられない子に対しても教育を受けさせてあげるべきだという考えで納得しようとするのである。

 

最近になって、発達障害の子供や、不登校の子供に対して理解を広めるための情報が出始めた。願わくばみんな、人間関係にトラブルを抱えず、学習能力も人並み以上になって、優秀な人材と言われたいと願って生きている。

 

だが、いろいろな理由で生きづらさを抱える人々が見聞きしている世界や、感じていることなどを取り上げる記事はあまり多くない。

 

いってみればすべての人が何かしら生きづらさを抱えているのに、その感覚を麻痺させるように誘導する社会の構造が、深い病にかかっているというのに、あくまでも個人の感じ方であるとか、個人の精神の病であるとか、社会ではなく個人の問題としてそれらを扱い、彼らをも「健全な感じ方をし、疑わない人」に育て上げることを目的として問題提起しているのだ。

 

人間の本能には死への欲動(タナトス)があるというが、破滅へ進みたいと思う人間の衝動が社会の闇を増大させているのだと考えることもある。

 

だが、社会的成功を人生の目的としない生き方が世の中に浸透したら、かわいさと生活の充実をアピールするためだけにSNSを使って寂しさを埋め合わせてきた人々が、自分が存在するだけで意味があり、独りでも愛を感じて生きることができるのだと幸せをかみしめて生きるのは夢物語ではなくなると私は思う。

 

この考えはずっとまとまらず、なんとなく感じているだけの戯れ言でもあるが、なぜか鬱状態がひどくなると、私は社会的立場や成功などに目がいき、自分が情けなくて消えた方がいい存在だと思ってしまうので、こう書いた。

 

病的だからこそ人の本質が現れやすくなるとはよく言ったもので、精神は人の社会的立場やつながりを無意識のうちに意識し、支配もしているのである。

 

この変な、無意識のうちに起こる他者と自分との比較は、社会の根源をなす欲望と深く関係があると思う。

 

大きな病などをきっかけに、名声やお金を追いかけることをやめ、野鳥を見たり近所の草木の成長を喜ぶようになる人々の心の変化は、社会に根ざす競争の闇に一筋の光を与えてくれる気がする。

 

これを書いている間に、かなり大きな地震があって、身の危険を感じたが、家族も私にも怪我がなかった。これだけでもありがたい。そして、そのありがたみを人生の糧にしたい。