kyoukokukenbunshi’s diary

狂国見聞史 生きづらい世の中に対して感じたことを書きます

漂流記 その11

フェルデンクラウスは、例えば武道やピラティスのように、丹田、下腹部の深層筋を鍛えるものとも違う。フランスでフェルデンクラウスを教えている私のモダンダンスの師匠は、私がムーヴメントを丹田から生み出そうと躍起になって下腹部を意識しているのを観て、「そのやり方は違う」とはっきりと言った。ムーヴメントは確かに脳の指令や意識から生み出され、一般的なダンスのメソッドから言えば丹田を意識する方法が「正しい」ことになるが、フェルデンクラウスのムーヴメントはあくまでも不随意運動であり、例えば胸骨を起点にした単純な動きの繰り返しが、螺旋を描くようなエネルギーの方向性を伴って身体全体を連動させていくと言う形でもって、無意識のうちに骨格や筋肉に働きかけて可動域を広げていく。これが何を最終的に目的にしているかと言うと、精神と身体の解放の為のエクササイズとして、また人の精神と身体を繋げていく訓練方法としての一つの可能性の示唆なのだと思う。

悩みに悩んでいると人は一点に留まって延々と同じ事を繰り返し考えるものだが、私は一人で、また友達と一緒にあてのない散歩をする事で、その負の連鎖から解放される事がある。ただ歩くという単純な動作の繰り返しの中に、どれだけ多くの希望と可能性が秘められているだろうか。

色々な事がコンピューターで処理され、その中で生活せざるを得ない私達にとって、運動というものはある種の生命の証だと再認識する必要があると思う。芸術分野においてもコンピューター技術の目覚ましい働きが増えてきたが、ダンスというものは生物でなければ意味がない。このバーチャル世界においては、生の芸術というものが大きな価値を持つだろう。

次に、絵を描くという表現についてだが、ここで私はある画家の展示会を思い出した。画家の名前はエリザベス・ペイトン。私はそれを母に誘われて東京の原美術館で観た。

エリザベス・ペイトンの絵には、タイトルも説明書きも添えられていなかったのが印象的だ。何の先入観もなく、私達は彼女の絵に対して素直な感想を述べる事ができた。彼女の絵には、人物を描いたポートレートの作品が多く、柔らかい筆のタッチでリアルに優しく人の表情を描き出している。その色彩は明るいものが多い。そして、説明書きがない代わりに彼女か自分の作品と芸術活動に対するコンセプトを述べたインタビュー記事を読む事ができたが、その内容に私は衝撃を受けた。彼女はヒラリー・クリントンドナルド・トランプが争った先のアメリカ大統領選挙についてコメントをして、こう述べている。

「先のアメリカ大統領選挙において、私はアメリカ国民にとって真実や正義というものが殆ど価値がないものだという事実を認識する事ができました。そしてそれは、私にとってとても大切な事です。」

私は自分の国とその国民性に怒りを持って批判する事も多々あるが、彼女は大衆が真実や正義を求めていない事は自分にとってとても大切な事だと言い切れる。そこに限りない彼女の優しさと、達観した感性を見る事ができる。

エリザベス・ペイトンの作品は、インスタグラムやフェイスブックの台頭で色々な作られた物の価値が消費されている現実を直視し、このインターネットのおかげで化け物のように大きくなった消費文化のシステムに対してある種の抵抗を見せつけている。

生身の人間の肖像を描くという行為と作品の価値は、写真技術すらない時代と今では違うのだが、彼女の純粋な感性は時に生々しく、時に洗練された輝きを持ってそこに存在する。描くという行為の意図とその手間には、ある利益を求める欲望や理想のイメージよりは、ただひたすら絵の具を塗り重ねていくとか、線を引く、あるいは点を描きこむと言った地味な作業の繰り返しの中に作り手の価値というものも確実に産まれてくるものだから、完成された絵の社会的評価や値段よりは、絵描きが絵に込めた想いというものにこそ観る人は惹きつけられる面がある。