kyoukokukenbunshi’s diary

狂国見聞史 生きづらい世の中に対して感じたことを書きます

漂流記 その10

信じるという行為は面倒臭いものだし、気が変われば忍耐なんてものはくだらない固執でもある。しかし、それだけではないと私は思う。

私は人が表現する手段の可能性について、よく考える。

幼い頃からダンスを続けてきたからというのもあるが、言葉の持つ暴力性に気づいてからは、ますます言葉以外の表現方法について考えるようになった。私は絵を描いたり、踊ったり、文章を書いたりといった表現方法に頼って生きているが、ここで少しこれら三つの表現方法についてその特性と可能性について比較をしてみたい。

まず、原始的な表現方法であるダンスについてだが、私達は動きの中で何処からが踊っていると判断されるのかをよく知らない。例えば厳密な動きの規則を持つクラシックバレエや民族舞踊においては、決められた形を守るというルールがあるため、それらは「踊っている状態」を判断し易い。しかし、モダンダンスや舞踏といった割と新しいダンスの分野においては、ただ立っているだけ、座っているだけ、寝ているだけの静止した状態でいる事もしばしば観られるので、これらの新しい表現を追求したダンスを解釈する場合には人が生きている事そのものがダンスであるという認識も産まれてくるものだ。歩いているだけでも人は動きの中にある規則性を持ち、その規則的な動きのリズムの中にダンス的な要素を見出す事もできるだろう。また、あるいはクラシックバレエや民族舞踊においても、極論から言えば立っているだけでも人目を惹きつけるようなオーラが自然に培われるものなので、その場合にも静止しているだけでも「踊っている」と判断してそれに魅力を感じる人も多いだろう。しかしながら、多くの場合のダンスの概念は、厳密に定められたポジションと規則性を持ったムーヴメントを客観的に観た場合において判断されるものだ。絶対的な美を追求したと言われるクラシックバレエも、特殊な事をしているように見えるが、踊る側から何かコメントするなら、そのテクニックは人の身体を最も効率的に使う事のできる、純粋な運動技術であると言う人も多いだろう。そして、そこに踊る喜びや音楽性がプラスされると、それは機械的な運動ではなくなり、それこそがクラシックバレエの追求するものであると私は考えている。

運動する事で取り憑かれていた悩みや考え事から解放される人は多いが、私達は不随意運動に対してそれほど強い関心を抱かない場合の方が多い。しかしながら、私のように脳神経に作用する薬を常用していると、筋肉や関節の硬直や小さな痙攣を日常抱える事になる者もいれば、麻痺や神経障害、脳障害のために苦しむ人もいる。いわゆるダンスの訓練とは趣が異なるのだが、私はそういう問題に対するポジティブなアプローチ方法として、フェルデンクラウス(Feldenkrais)という運動メソッドを推奨し、実践したいと思っている。これは、今私が論じている表現の可能性の比較とは少しずれているように見えるが、根本の部分ではこの論題に関して非常に重要な意味を持っている。