kyoukokukenbunshi’s diary

狂国見聞史 生きづらい世の中に対して感じたことを書きます

脅威に対して私達ができる事

私達はこの日常の生活を様々な脅威の中で送らざるを得ない。あるものの見方をすれば、問題を深刻に考えずにその日を楽しく過ごすことの方がより幸せに思えるかもしれない。そう言った考えの人の方が、今の世の中は多いだろう。

物事を楽観的に考えれば考えるほど、物事は比較的楽に捉えられるのだから、楽観的主義者が多い社会というのも不思議ではないのだが、問題を問題と捉えた上で楽観的に考えるのと、問題を知っても興味を示さないというのは違う。

どちらかというと多いのは、後者の方かもしれない。

成長期の過程で、頭ではわかっていても腑に落ちなくて心では理解できないという事がよくある。それと同じで、問題を問題と捉えられないのは理屈では理解できても実感の湧かない問題であるということが、社会運動をする上で大きな壁となっている。

だがこれも、メディアの報道の仕方によっては多くの人が問題を深刻に捉えられるようにもなるだろう。

近年は夏が異様に暑いが、熱中症になる事を恐れるのは誰にとっても同じだ。それの原因が気候変動による気温上昇の影響だから、気候変動対策に国を挙げて取り組まなくてはならないとニュースで大々的に報道したならば、気候変動に対する国民の意識もある程度は変わるだろうと思う。

残念ながら日本のメディアは安倍政権にゴマをする事が一番大切と考えているのか、気候変動や福島の原発事故による放射能汚染よりは(景気が良くなっていないのに)景気回復したとか、芸能人のゴシップなどの報道がメインで、それらは深刻な脅威のニュースの良いスケープゴートになっている。

市民運動は大きなメディアに比べて影響力はないように見えるが、個人が発信し続ける事の重要性についていつも考えるきっかけをくれる。

幸いな事に、最近ではSNSを使う人が増えたから、個人が発信する情報にも前よりは影響力が出てきている。それらが単に食べ物の写真であったりしたとしてもリアクションがつくというのは昔ならば考えられなかった事で、食べ物などの写真でなく社会の脅威について調べた真実に近い情報であれば、それはよりいっそう意味を持つようになるだろう。

私は精神病が持病にあるため、具合の悪い時は何にも興味を持てず辛い時間を過ごす事があるが、逆に人が何かに興味を持つという事は簡単なようでいてなかなか難しいものだという事に気付かされた。時間潰しのためにスマートフォンでゲームをやる事だって、本来は簡単な事ではないのだ。写真を撮ってSNSにアップする事ですら、何にも興味がない時には億劫で辛い作業になってしまう。

人は安楽なもの、楽しいと思える事には積極的になれるのだろうが、楽しいと感ずるまでにもかなりのエネルギーを要する事を病気から学んだので、社会の問題のように面倒だと感ずるものには多くの人が興味を示さないのもある意味ではわかるようになった。

前に会った人に「人の気持ちは簡単には変わりませんしね」と言われた時、確かに人の気持ちは簡単には変われない、それでも、思うことがあった。

インターネット上に個人が流した情報に周りからのリアクションが多かったらテレビのニュースでも大きく報道されるように、メディアの情報源のソースも市民の手に委ねられ始めているのだと思う。

真実を発信するには様々な妨害や無理解の壁もあるのだろうが、人の信念は最後まで曲がらなかった時に初めて、人々の心の琴線に触れるような普遍性を持つのだと思う。

生きるにも死ぬにも覚悟の必要な世の中だが、信念を貫く覚悟はいつでも持てる。

世の中が平和にならないように見えて、実は今からでも発信できるツールが沢山あるという意味では、希望も沢山あるという事のように思う。