kyoukokukenbunshi’s diary

狂国見聞史 生きづらい世の中に対して感じたことを書きます

老化


最近、朝に鬱状態になって、精神安定剤を飲むまで気持ちが落ち込んでいる事が多く、なんだかうまくいかない。

 


なんだかうまくいかないが人生の98%を占め、後の1%が楽しい事で、後の1%が可もなく不可もなく中庸の状態なのだとかなんだとか自分を納得させようとしていたのだが、出かけた先のトイレの鏡で白髪を沢山発見してしまい、ますますふてくされていた。

 


近頃は老化が甚だしいと思ってしまうのだが、60代後半になっても髪が黒々としていて童顔の母は、「なんでそんなに自分の事老けたとか太ったとか考えちゃうの?私なんて鏡の中観て、『うん、イケてるんじゃない?』って自分に満足してるわよ」と言ってくる。

 


確かになんでみんなそんなに見た目を気にするのだろうか、若々しさに拘るのだろうか、と思いながら、あるNHKの英語テキストを観たら、一月を通じて中年の危機というテーマで台本を作って論じている。中年を指す世代の設定は40代という事だし、私はその一段階前の世代だが、細身のジーパンが入らなくなる、親の介護が重くのしかかってくる、自信を失うなど、具体的な例でもってこちらに迫ってくる内容である。

 


それを読みながら、想像以上に老化が早いっていうのはどういう事なんだと考えていたが、やはり鬱状態が運動するのも億劫になる原因だし、ストレスも半端ではなくなるよなあと思い、仕方ない事なのかとまた諦めかけていた。

 


源氏物語の中に、別れた好きな女性から青銅の鏡を貰うが、鏡の入った箱を何年も開けられず、だいぶ年老いてから鏡の箱を開けて、鏡の中に映った年老いた自分の姿を改めて観るという話があると、知人から聴いた。

 


彼は女性ともう再会する事もなく、しかし鏡の裏には二匹の絡み合った龍の絵が描いてあり、彼らが会うことがない現実の中にも確実に互いに影響しあっているという事を示しているという。

 


時を経ないとその時に経験した事の本当の価値は見えないという、面白いくだりらしい。

 


私は若いうちから目先の事しか考えられず、突拍子のない行動をしてきてしまっているが、最近になって自分の5年後や10年後の事の方が気になり、ますます気持ちが落ち込むという鬱のパターンにはまりこんでいる。

 


今の事にしか興味を持たず、とりあえず挑戦してみる、行ってみるという大胆な行動ができない今、思うのは過去の自分の姿である。

 


小学生の頃に書いていた日記が出てきて、読み返していたのだが、子供なりに悩みながら学校で友達と生活していた。

 


その頃一番仲良くしていた友達は、彼女のお父さんが病気になったあたりから精神のバランスを崩してしまっていた。彼女が好きな同級生の男の子に告白したい、したくないと私に揺れる感情を打ち明けるのだが、その頃の私は小学生で恋愛をするなんてませ過ぎている、と内心冷ややかに思っていたようだ。

 


多分、彼女は彼女の父親が心配でたまらず、好きな同級生でもいないと精神を保っていられなかったのかなと今は思う。

 


その頃は同時に昆虫採集やカナヘビの飼育にも精を出していて、周りから見たらゲテモノ好きな変な子に見えたのだろう、虫好きを理由に同級生からからかわれたりもしていた。

 


何か自分の軌跡に感じる事があるとすれば、やっぱり昔から考え過ぎる傾向と、考えずに突っ走ってしまう傾向がアンバランスに入り混じっているのかなという事である。

 


矛盾するが、そういう特徴があると医師から言われた事がある。

 


白髪を大量に発見したショックを抱えながら、憂さ晴らしをしようと駄菓子屋に入った。おそらく昭和から使われていた、30円で遊べるゲームをやってみた。コインを手弾きレバーで弾き、穴に落ちないように日本列島を横断するというゲームで、あっという間にゲームオーバーになり、コインは浅草雷門までしか行かなかった。

 


そういうのは弾きすぎないのがコツらしいのだが、なんとなくやって気持ちが晴れたような気がした。アナログなゲームなのが良い。

 


歳を取るのも元気を取り戻すのも一進一退、と思いながら、また飽きる事なく昆虫を眺めていた昔に戻りたいなと叶わぬ夢を見てしまった。

 


いずれ、今日の事がどういう価値があるのか見える時が来るのかもしれないと思いながら。