kyoukokukenbunshi’s diary

狂国見聞史 生きづらい世の中に対して感じたことを書きます

オリンピック

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飲食店への営業時間の時短要請が続く中、東京オリンピックに関しては開催する方向で聖火リレーをしているらしい。

 


聖火リレーの中継映像の音声が一時途絶えたそうなのだが、その理由というのが沿道から「オリンピック反対!」という内容のヤジが飛んだからだという。

 


ヤジを飛ばす事には賛否両論あるのだろうが、コロナ禍で他人の行動を監視する風潮も強まる中で、人を集めて一時的にだけバブルを作り出すためだけに東京オリンピックは開催し、反対意見は敢えて報道させないようにしているのは何とも矛盾した話である。

 


フロイトの甥であるエドワード・バーネイズは、タバコの売り上げを増やす為にタバコを吸うターゲット層を広げるための広報をし、まんまと成功したという。その広報の内容というのが、タバコを女性も吸う事によって女性も自由を得て、社会的自立ができるというものだったらしい。実際には喫煙する事と女性の自立は関連性がなく、ニコチン依存によりタバコの売り上げは増えるが健康には影響があるし文字通りタバコ産業のカモにされているだけなのだが、巧妙なそのやり方は大衆扇動と広告産業の基礎になり、現代に続いている。

 


オリンピックは純粋にスポーツを楽しむというよりは、各国の政府や国民がナショナリズムを炸裂させて戦争の代償行為をして興奮しているような、変な作用がある祭典である。

 


子供の頃はオリンピックで日本人選手がメダルを懸けて奮闘する様子をドキドキしながら観ていたが、戦時中の人々の心理を色々な資料館や本やドキュメンタリー映画で観るうちに、自分の国籍と同じ選手だけ応援して興奮するのが怖いと思うようになった。

 


私はダンスが好きで、よく昔はダンススタジオに通ってはバレエやコンテンポラリーダンスを習ったので、身体を動かす事の楽しさはよくわかるつもりだったが、海外に行って現地のダンススタジオで人種差別に近いいじめなどを経験してから、スポーツなどにはナショナリズム差別意識に基づく興奮というものが起きやすいのかもしれないと感じもした。

 


同時に現地の人々から暖かい言葉をかけられたり、励まされたりもして、益々やる気になって頑張ったりもした。

 


本来、人が何かに没頭するというのは、その人の人種や性別や生い立ちなどの「しがらみ」から解き放たれ、もっと根源的な自分自身に近づいていく行為なのだと思うが、純粋な運動は広報や肩書き、宣伝によって、詐欺のような経済活動に利用されていっているのが現代なのだ。

 


私は子供の頃、負けず嫌いで、水泳教室の試験でタイムが落ちたりすると、悔しさからタイムが記載された票をくしゃくしゃにして、コーチから怒られたりしていた。子供心に競争させられる事に嫌気がさしてもいたが、悔しい気持ちも本物だったので、叱られる理由がよく理解出来なかった。

 


それが理解できるようになったのは、小学生の時に駅伝の補欠をやっていた時だった。私は一番走るのが遅く、選手には手が届かないし補欠の中でも一番ビリだった。それでも、なんとなく淡々と走る事が好きだった。

 


ある時、周回遅れでビリになりながら、完走したら、ある教師が「走り切るなんて、貴方は偉いね」と褒めてきた。なんで一番遅いのに褒められるのだろうとポカンとしていたのだが、その先生は、遅い事で不貞腐れて途中で走るのを辞める例を沢山見てきたのかもしれないと後で気づいた。

 


成果だけ見て生徒を評価する先生よりも、諦めずにただ黙々と走る事の意味を教えてくれたその先生の言葉は、とても印象深くて嬉しかった。

 


未だに充分に結果を出せないが、そんな時にあの先生の言葉をよく思い返す。

 


人生が競争だけに明け暮れてしまったら、どんなに人を苦しめるのだろうと思うし、逆に競争はさておき、淡々と何かに取り組む事の意義を生活に見出せたら、どんなに人生が楽しめるかとも思う。

コーヒーの味


数年前に、派遣の仕事で、よくココアの試飲販売をしていた。

 


派遣会社から指示された先のスーパーに行き、そこで一日、試飲販売をする。今はコロナ禍なので試飲の仕事もないようだが、(私は体調を崩して仕事を休んだのだが、それから派遣会社から使えない人材と判断されたのか、ぱったりと仕事の案内メールも途絶えてしまい、今はどういう雇用があるのかもわからないが)あの当時は体力の許す限り色々な所へ出向いて働いていた。

 


一日しか働かないので、日雇いだが、当然産まれて初めて行った先のスーパーの勝手はよくわからない。なので、そこでいつも働いているパートの人などに、担当者はどこにいるのか、どこに行けば資材の入った段ボール箱があるのかなどを質問して仕事を始めるのだが、ある時質問した相手は、どうも外国人労働者だったようだ。

 


彼は私の日本語が全て理解できた訳ではなかったのか、片言の日本語で「ちょっとここで待ってください」と言い、担当者を探しに行ってくれた。

 


自分も慣れない国で働く身の中、親切に私のために動いてくれたのがありがたかった。

 


私がココアの試飲をすると知ると、彼は「後でココアを飲ませて」と言い、休み時間に飲みに来た。日本人だとお客さんのために試飲として提供しているものをスタッフが飲むなんてけしからん、という発想になるかもしれないが、彼の国ではもっと楽に考えてみんなで少し飲ませてもらって楽しんでいるのかもしれない。ココアを一杯飲ませてあげると、笑顔で「ありがとう」と言って、休憩室に行ってしまった。

 


その後、私が休憩室でお昼ご飯を食べていたら、その人はもう帰る時間らしかった。早朝から来て働いていたのだろう。私服に着替えた彼が、急に私に外国のインスタントコーヒーの袋を二つくれた。どうもそれはベトナムのコーヒーらしく、そこで初めて私は彼がベトナム人である事を知った。

 


お礼を言ったら、彼は仲間と一緒に帰って行った。もう会う事はないのだろうが、親切心が非常に印象に残った。

 


家に帰ってからそのベトナムのコーヒーを飲んでみたら、非常に濃い味がして美味しい。今まで飲んだ事がない味だった。

 


日本にも外国からきた労働者が増え、彼らは安い賃金で過酷な労働をこなす。チェーン店のサンドイッチ屋で働いた時も、店を支えていたのはワーキングホリデーで来た韓国人達だった。

 


日本人の日本に対する特権意識のようなものは、外国人差別にも繋がっているが、今の日本の社会を回してくれているのは彼らでもある。

 


安い労働力を企業は求め、日本に移住したいと期待してやってくる外国人のやりがいを搾取するのは、自国の労働者を雇うよりも楽な面があるのだろうか。

 


最近では日給1800円で交通費なしなんていう仕事まで別のギグワーク専門サイトにあったが、今はみんな苦しいのだから仕事があるだけありがたいと思えと言わんばかりである。

 


それだけ安く人を使う事で利益をあげようとしてきた経済とは、人にとって何なのか。

 


お金のためだから我慢するのだとか、お金のためだから仕方ないのだとか、お金のために私達は何を犠牲にして生きているのだろうか。

 


ベトナムから働きに来た男性のくれたベトナムコーヒーの味は、ただ単に濃くて美味しいだけでなく、よく知らない国で厳しい労働をしている彼の暖かい心を思い出させてくれる味だ。

 


それから私は、安くベトナムコーヒーを売っている人をフリマアプリで見つけ、いつもベトナムコーヒーを愛飲している。

 


人から受けた親切の味が、日常に華を添えてくれ、いつも気持ちを和ませてくれるのだ。

考える葦

 

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数珠を手ですり合わせたり、数えたりする「儀式」や慣習は、人間が科学を知らない時代に編み出した、世の中の理解の方法であり、人間は不可思議な事を受け入れて放っておく事が非常に苦手で、世の中の事物を理解しようとしないと不安になってしまうのだと示していると思う。

 


虫や動物は環境に合わせて自分の身体の構造を変え、生態も変化させて適応し、一生を終えるが、人間は周りの環境を破壊して変えるのが性である。

 


ところで、人の性質の話になるが、意外とSNSなどを使っている時の人の気持ちは、攻撃的な事も多いと思う。

 


匿名で自由に何かを批判できる事は自分が強くなった気にもあるが、ネットを使うと急に心の闇やネガティブな感情に対して素直になってしまう。

 


それだけ現実の世界に生きている時は本音がわからなくなるまで自分自身を抑圧し、空元気を振る舞って「ポジティブに」生きているのだろうから、反動が来るのかもしれないが、この心の闇や不満はどこから湧いてくるのだろう。

 


ニュースの項目や「売れている」本のテーマ、雑誌の広告などを見ていると、人々の心に本当に向き合った内容もあるのだが(今、小林多喜二の「蟹工船」やマルクスの「資本論」などがベストセラーになっているらしい)多くはダイエットの方法とグルメの広告が一緒になったような雑誌だとか、いかに自分を知的に見せるかだとか、人間の外側だけ意識させるような本や記事が多い。

 


人間の内面はそれこそダークだから、敢えて向き合いたいと思えないのかもしれないが、Amazonの商品レビューやYahoo!ニュースのコメント欄ですら、作り手や記事の書き手がストレスで病んでしまいそうなネガティブなコメントが多いので、優しい気持ちを維持し続ける事が人にとっていかに難しいかを痛感させられる。攻撃的なコメントを観て、頷いてしまっている自分自身に気づく事もあるからである。

 


言ってみれば経済というのは詐欺と暴力と格差で肥え太ってきたのだから、お金だけに価値を見出すのだとしたら、世の中は暴力的になってしまうのである。

 


なかなか思うように良い人生は歩めないなあと腐りがちになるのだが、それでも春には花が咲き、蟻などの虫はせっせと餌を探して歩き回る。

 


唯一、事物を解釈しきれない時に彼等の営みを観ると、慰めになるような気持ちになるし、納得できない事や気持ちの整理がつかない事も、ふっと消し飛ばされてしまうような感じがする。

 


人間の考えや慣習はそれでも続くが、自然の前には小さな悩みなのかもしれない。

 

 

 

他者配慮的な性格は損なのか

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隣町にある駄菓子屋にふらっと立ち寄った。あるお父さんが、小学校低学年くらいの自分の娘に、「遠慮しないで好きなものをどんどん籠に入れなさい」と言っている。これ買って!あれ買って!と子供なら言うようなものだが、幼いうちから親に迷惑をかけてはいけない、と我慢している感じで、ちょっと可哀想だった。

 


小学校ではよく、我慢して欲しがらない事を美徳として生徒に教えるが、それも何か鬱屈していて偏った自制心を育んでしまう。

 


簡単なドリルを復習する回数を減らしたりして、合理的に他の勉強をしようとすると、ルールに背く事をした同級生を吊し上げるようなクラスの雰囲気になったりした。私は基礎的な計算やら、漢字の書き取りやらのドリルを13回も復習する必要はないと思っていたが、何故か担任はそれを怠る生徒は怠け者だと言う。けれども給食などでは図々しくても争奪戦に勝った子供が得をする事になり、なんだかよく理解できなくて非合理的な閉塞感が漂っていた。

 


ウィリアム・ゴールディングの小説「蝿の王」を読んで、漂流して子供しかいない無人島で生き抜く少年たちが、独自のルールを作る中で次第に殺戮に手を染めていく過程に、人間の本性を見た。

 


駄菓子屋で親にも気を遣うような子供の優しさは、競争社会の中では足枷になってしまう。

 


小説の中の少年たちも、元々粗暴な訳ではない。けれども発言権やグループを統率するための権力闘争や食べ物や火を巡って、対立していくのである。

 


子供の頃からあれが欲しい、これが欲しいと言えなければ言えないで精神に問題が起きやすいが、欲望に素直であっても問題は起きる。これが人間が抱える種としてのジレンマでもあり、人間らしさでもある。

 


蝿の王」の中では、太っていてピギーとあだ名をつけられている眼鏡の少年が、火を起こす為のレンズとして使うために眼鏡を奪われてものが見えなくなったり、太っている事で周りの少年たちから馬鹿にされたりする。

 


彼なしでは少年たちは生きていけないのだが、辛辣で的を得た事を言い、太っている彼はからかいの対象である。

 


ここに、ゴールディングの人間に対する観察眼の鋭さがある。

 


この小説は非難もされたが、子供の世界でも大人の世界でも個性的で配慮ある人間は排除されて虐められる傾向も強いという真実を私たちに突きつけたし、一般的に純粋で穢れのない存在として語られる子供達の見せる、真の人間の残酷さを克明に描いたからである。

 


大人になったからといって、誰もが他者配慮的な性格になる訳でもないが、他者に与える人生が損であると社会は暗に示しているように思う。

 


少しでもお金を多く稼ぐために、少しでも多くの美味しいものを食べるために、また社会的名声を得るために、競争を激化させていくのもまた、社会が求める価値ある人間の姿である。

 


個人としては富や名声が全てではないと考えていても、消費しないとやりきれないほどのストレスを受け続け、コーヒーやお酒への依存に似た刺激を常に求めているのが現代人でもある。それらの刺激と社会的な立場を得るために、みんな努力しているのだから、皮肉な構造の社会だ。

 


他者配慮的で、自ら競争の土俵を降りてしまうような人間は本当に損をしているのだろうか。

 


一見、それは損しているように見えるが、個人の幸福感とはまた別に、彼らは他者を助けているという、本人もあまり気づかない存在意義を私たちに示してくれているのである。

 


損して悲しみや怒り、失望感のみ味わっていても、数少ない人間という動物の善さと可能性を、その悲しみの中にのみ見出せる気が、私はするのだ。

 


先にも書いたように、我慢する事で精神的に問題が起きる場合も多く、人間は欲求に素直過ぎても問題が起きるし、禁欲的過ぎても問題が起きるのだが、相反するこの性質の葛藤が、人間関係の摩擦を産み、そしてそこから得た他者からの親切から私たちは大切な生きる糧、生きる活力を貰うのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

眠りを撃て

早朝に悪夢を観て目が覚めた。

 

夢の内容はこうだ。私はネズミやモルモットが好きなのだが、二十日ネズミが増え過ぎて、ブチブチと手で二十日ネズミの子供を潰して殺している。モルモットも一匹、ぐったりして死んでしまっている。

 

二十日ネズミの子供を手で潰していたら、唐突にツグミが現れて、嘴で小鼠の頭を刺して、脳みそを啄んでいる。私の手にも嘴を突き立て、血が出て、そこで我慢できずに目が覚めた。

 

我慢出来なかったというのは不思議だ。

 

幼い頃から私は不眠症で寝付きが悪く、起きるのも未だに大変である。

 

だから、寝る事も起きる事も私にはコントロールができず、それは唐突に降ってくるにわか雨のようなものなのだ。

 

眠りにつくタイミングがわからないので、不眠が酷い夜は寝る事がお祭りの射的ゲームのようになる。

 

羊の数なんて飽きるほど数えて朝を迎える事も沢山あったし、コーヒーやお茶を控えてもどうにもならない。

 

白夜はまだ経験した事がないが、眠れない夜は頭がすかーんと真っ白になり、それが眩しいような感じになる。

 

意識が飛びそうになりながらもまだ意識があって眠れない、眠りと覚醒の間の旅には慣れようがないから、変な状態になる。

 

鬱っぽくなる事もあれば、反対に躁状態になる場合もある。

 

睡眠が足りているかいないかで人格が変わってしまうので、何が本当の自分の姿なのか、よくわからない。

 

一つ言えるのは、私がもっと自分の姿が受け入れられて、何かに没頭できるようになったら、少し悩みが減って、寝られない事があってもあまり気にしなくなるかもしれないという事だ。

 

格差が広がって、社会の底辺のあたりを這い回って生きている私にとって、競争の中で勝とうとするストレスが、もろに不眠症に現れてしまう。

 

もしかしたらまだ、社会と自分との折り合いがつかないまま生きているのかもしれないが、むしろ狂った社会との折り合いがつく方が心の闇は深くなるのかもと思ってしまう事もある。

 

沢山買い物ができて、社会的地位があって、美味しいものを沢山食べられる事が勝ち組のように考えられていて、子供の頃からそうなる事が幸せだと思い込まされ、競争させられる。周りと同じでなくてはいけないが、その中で競争させる教育のシステムが、どんな素晴らしい今を作ってきたのだろうか。

 

自分の眠りの的も撃ち抜かないと明日が大変だが、社会の半分眠った状態も大変だと感じている。

 

 

春の憂鬱

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10年来の友達とメールのやり取りをしていたら、彼女は悶々としながらも元気だという。

 

私も悶々としてるよ〜、と返事をしたら、ちょっと驚いていたらしい。

 

春になったのに憂鬱なのには訳があるように感じた。

 

良い陽気でも出かけられず、何もできないのが苦しいのかもしれない。散歩とか、近場の用事なら出かけられるのだが。

 

色々なお店や飲食店が潰れて、看板などを片付ける余裕もなく廃墟になっているところもある。なんだか寂れた風景になったなあと思うが、辞めるきっかけが見つかったから思い切って辞めたのだという意見も身内からあった。

 

以前一緒に飲食店で働いていた同僚の女性は、去年から始まったコロナの流行で、そこをクビになったと言っていた。私は具合が悪くなって、コロナの流行前にそこを辞めていたのだが、呆気ないものだなと話を聞いて思った。

 

戦争が形を変えてコロナ禍という形を取ったのかと話している友人もいた。

 

思うのは、距離が遠くなって人に会えなくなった分、よく知人や友人と話すようになったという事だ。

 

疎遠になったように見えて、近くなった関係。

 

春の憂鬱はなんとなく、出かけられない、誰にも会えないという蟠りから来てもいるように思えるが、実は前よりも話すようになったという利点もある。

 

独りだけど独りぼっちではないのは、救いかもしれない。

 

地震

 

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先程、大きめの地震があり、テレビでニュースを見たら宮城県津波警報が出ていた。既に石巻に一メートルほどの津波が到達したかと報道した後、津波警報は解除された。

 

常に原発は新たな異常はないとニュースで言うが、こんな危険なものをゆらゆら揺れ続ける国で維持していくのかと。

 

東京オリンピックパラリンピックは海外からの観戦客の受け入れを断念というが、まだやる気なのかと思うとゲンナリする。

 

状況は悪くなるばかりだが、気を取り直したくて絵を描いた。

 

昔、こんな絵本の表紙があったかもしれない。

 

無意識のうちに真似をしている。